思惟漏刻

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ふるさとに寄する讃歌 (坂口安吾特集1)

あらすじ

 

何かを求めていながら、何を求めていればいいのか分からない私は、次第に希薄な存在になり、感情にさえ実感が欠けていることに気付く。

私は、求めることに、疲れていた。私は長い間ものを求めた。そのように、私の疲れも古かった。私の疲れは、生きることにも堪え難いほど、私の身体を損ねていた。私は、ときどき、私の身体がもはや何処にも見当たらぬように感じていた。そして、取り残された私のために、淡い困惑を浮べた。 

求めるべきものを求めるという不毛で欠落感のひどい日々を過ごしていたある日、昔の少女を思い出す。特別な存在と言うわけでもないが、彼女の影を追い故郷へ帰る。

私は思い出を掘り返した。そして或日、思い出の一番奥にたたみこまれた、埃まみれな一つの面影を探り当てた。それは一人の少女だった。

私の追う彼女は私の記憶を種に生長したのであり、現実の彼女とはかけ離れていることは理解できる。しかし、私には概念であり象徴である彼女を追う以外に為すべきことが分からない。概念を追う私は概念ではなく現実の私であり、そのような私を客観すると私自身が風景の一部や空気のように感じられる。

 かような私を眺めやるとき、私は私が、夢のように遠い、茫漠とした風景であるのに気付いていた。

 故郷に滞在中、姉がこの町で療養中で死期が近いことを知る。姉は私を尊敬してくれているため、現在の風景たる状態の私としてあうのは憚られたが、しかし、病院へ入っていった。

 

お見舞いや昔なじみとの会話をして数日を過ごし、ある時、私は海へ行った。そこで私は唐突に死を思い出す。

 

その夜、姉との白々しい会話をし、翌朝、私は東京へ帰る決心をする。

その夜、病院へ泊った。私は姉に会うことを、さらに甚だしく欲しなかった。なぜなら、実感のない会話を交えねばならなかったから。

 

東京の空がみえた。置き忘れてきた私の影が、東京の雑沓に揉まれ、蹂みしだかれ、粉砕されて喘いでいた。限りないその傷に、無言の影がふくれ顔をした。私は其処へ戻ろうと思った。(中略)私は生き生きと悲しもう。

 

 

 

全体を通してみると、欠落感を埋めるべく虚しい努力をしていた主人公が実感を取り戻し日常生活へ戻っていく構成になっている。

帰郷の前は欠落感を埋める何かがあるつもりでいて、その何かを求めているばかりであった。ほとんど面識すらない思い出の少女にまで希望を託している。帰郷後の始めはやはり何かが自分を変えてくれるのを求める姿勢であった。自分を風景だなどとみなし、言うなれば自分に自分が伴っていない。

姉との再会の頃から、知り合いと話すなど、自分を風景の一部とする客観的な立場が危うくなっていく。決定的だったのは、海での死を思い出すくだり。死と隣り合わせの自然のうちで、主人公は自分の感情に客観的であることを失った。直後、姉との会話を「実感のない会話」であるとの理由で嫌うようになる。

翌朝、「東京の雑沓に揉まれ、蹂みしだかれ、粉砕されて喘いでい」る影、実際に傷を負う肉体的な自身の片割れとの合流により、生きる意志を取り戻す。

この点、逆に言えばそれまでの彼は肉体的な自分と思考し感情を抱く自分とに分裂していたことになり、それ故に感情に実感を伴わず、欠落感に苦しんでいる。当然、自分以外のどこからもその欠損は埋め得ないのであって、「何かを求める」彼の姿勢の無意味さが納得される。

そうして、彼は「生き生きと悲し」む生き方を選んでいった。

 

坂口安吾の書くものからは得てして、人生はつらいがつらいなりに必死に生きねばならないという主張を感じる。この主人公が選んだ道も社会の荒波に揉まれて生きていくという道だ。人は堕落すると言いつつ、案外、手厳しいのだ。

 

感情に実感が伴わないことは多くの人が感じる人生の苦しみの一つだろう。『ふるさとに寄する讃歌』からは坂口がその原因が自身にあることをよく理解しているのが読み取れ、虚無感の仕組みを解体している様は見事だ。虚無感は激しい感情の波により癒されるという考え方は、以下に引用する『戦争と一人の女』の有名な文章にも見受けられる。

 

もっと戦争をしゃぶってやればよかったな。もっとへとへとになるまで戦争にからみついてやればよかったな。

 

ただし、坂口はその感情の荒波に耐え得ない人に対する救いを提示しない。少なくともこの小説内においては。思うに、感情に実感が伴わないのは、感情を客観視しなくてはその苦痛に耐えられなかった人が本能的に行った自己防衛ではないのだろうか?

坂口がそうした苦しみ自体への対処について言及する作品に出会えるのか、これから楽しみにしておく。しかし、上手い回答を出せないだろうというのが個人的な予想である。というのは、坂口は不眠症に苦しみ睡眠薬を大量に服薬していたくらいで、生活でかかっていたストレスは大きいと思われるからである。坂口は早死にしてでも立派な生き方をすることを望んだ人であることは考慮に入れておきたいところだ。坂口のような生き方をする必要はない。我々は彼が命を削って見つけ出したものをありがたく受け取り、自身に反映しておけばよいのである。


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