共喰い (田中慎弥)
自分にぴったりなものがちょうどいいタイミングで自分のもとにやってくる、なんてことがたまにある。
些細な例で言えば甘いものが食べたいなと思いながらも自制心を働かせて買い食いは我慢して帰ってみると、母親が知り合いからクッキーをもらったのを分けてくれた、みたいなことだ。
天のお導きと言うには小規模であるし、記憶が都合のよく改ざんされただけなのではとの推測の方がもっともらしい。
甘い誘惑(甘いものだけに)を断ち切った見返りに神様がご褒美をくれたのね、というようなストーリーを勝手に作り上げて、実際はコンビニをただチラ見しただけの記憶が素晴らしい自制心の発揮として書き換えられていたのだ、と言うようなことは十分あり得る。
引き寄せの法則だかなんだか知らないが確率的に起こりうることを奇跡のように喧伝するんじゃない! そんなものは偶然だい! と言われるとううん。そうかもしれん。と言い負けてしまいそうだ。
まぁでも、ちょうどいいものがちょうど手に入ったと言うのは、普通に考えたら自分が求めているものなわけで「なんてラッキー!」と喜んでおく分にはかまわないだろう。
だが、こっちの話はそうも簡単には片付かない。
これほどまでにおあつらえ向きなものが悔しかったことは無い。
読書好きのあるあるだと思うのだが、僕にもたくさんの本を読んでいるうちに自分で小説を書いてみたくなる時期が訪れた。
それで思いきって、大学の授業もない休日にビジネスホテルの一室を借りて一人前の作家然として5日ほどこもって執筆活動をしたのだ。
ストーリーが進むにつれ辻褄が合わなくなったり、整合性を取ろうとすると言い訳がましい文章になったりと、色々あった挙げ句、とりあえず出来上がったものは劣化版『ノルウェイの森』にしか見えない始末。何度目かのゼロからの書き直しを経てこれならどうだと構成だけは一旦完成に持ち込んだのだ。
ビジネスホテルはそこでチェックアウトとなり、結末の盛り上がりに自信をたぎらせながら、その後も自宅や喫茶店でちょこちょこ書き進めていた。
そんな時に、ふと気になって田中慎弥の『共喰い』を手に取ってしまったのだ。
ずっと気になっていたが、なかなか読むには至らなかった。そういう本だ。
気になっていたというのは、禁欲的受験生時代に「大学生になったら文学でも何でも読んでやるぞ」と読書三昧の日々を夢想していたちょうどその頃に芥川賞を受賞した作品であるのが理由の一つで、もう一つは何と言ってもセンセーショナルな受賞会見が原因だ。
田中慎弥は受賞の感想を聞かれて「受賞して当然」「こんなくだらない会見なんかさっさとやめて帰りましょうよ」と言ってのけたのだ。
そんなことを言えてしまうのかと、ゾッとした思い出が強く残っていたのだ。けれど、読みたい本は次から次へと出てきて、いつか読みたい本リストに名を連ねる無数のタイトルの一つになっていった。
それがなぜか自分が執筆をしている時期になって手に取ろうという気になった。正直、自分が書いている間は変な影響をうけそうだからとなるべくなら他の人の書いたものを読まないようにしていた。それなのに『共喰い』は手に取った。
戦慄した。
自分の書きたかったものが全て書いてある。
完全に先を越された。
細やかで丁寧な風景描写で、最後に至っては舞台装置が全てと言っても良いくらいに自分の書こうとしていたものと一致している。なのに、僕のと全然違う。
最初から見事に計算された構成でラストスパートの興奮は最高潮に達していた。
少しでも本気で執筆を始めたから分かる。これは完璧な上位互換だ、と。
嘘だろ、と思わず声を出しながら読み進め、読了後の打ちのめされた感触は圧倒的だった。
因果を感じざるを得ないまさしく”天のお導き”だった。
そういう事情で、この本は個人的にはあまりにもインパクトのある一冊だった。
もちろん、多くの人にとっても立派な作品として映るだろう。芥川賞はその一つの証だ。