思惟漏刻

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アイマスPの違和感

突然ですが、僕はデレステのPです。

デレステとはアイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージのことで、Pとはプロデューサーで平たく言えばプレイヤーです。

要するにスマホのアイドル育成ゲームをやっておりますということです。

(ちなみに、担当は北条加蓮です)

 

アイドルマスターシリーズの裾野は広大でデレステの他にもアイマスアニマス・ミリシタなどなど、それぞれに特有の略称をつけられた作品が多く展開されているのですが、にわかものたる自分は寡聞にして全貌を把握するに至っていません。

 

そんなにわかものにアイマスを語られてはたまらんと怒り心頭の古参プロデューサーはまずは落ち着いて振り上げた拳を降ろしていただきたい。オタクがデュフフと笑ってキモい、やっつけてくれという思いで来た方はあなたの期待には応えられない。精神衛生上よろしくないので帰ることをお勧めします。

 

 僕がわざわざ記事を書くのは、タイトルにも述べたようにアイマスPに対して違和感を感じ、これは何かあるぞと感じたからです。

 

回りくどいことはやめて端的に言ってしまうとPの違和感とは、人格が無いのに喋るということです。

ゲームをやったことのある人なら「おいおい、今更なにを大発見かのように言っているんだい?」とにべもなくあしらいたくなるかもしれません。

実際、発見としては大したものではないです。ですが、これは考察に足る素材なのでは、という予感があったわけです。

 

まず、アイマスを知らない方への説明もかねてPにまつわる背景をおさらいしておきましょう。

Pとはアイマス界隈で使われるプロデューサーの呼称です。

ゲームをしたことのある人ならお分かりと思いますが、自分はアイドル事務所に務めるプロデューサーという設定で、それぞれ決められた条件をクリアするとアイドルたちに関わるストーリーを見ることができます。

デレステにおいて、Pにはイラストが与えられていません。他のゲームで影絵が与えられているのは見たことがあります。与えられている設定は事務所のプロデューサーであること、たぶん男ではありますがそれすら明示されていたかどうか。その程度の設定しか無く、しかもほとんど喋りません。

たまに台詞を選択肢として選ぶことはありますが短くシンプルなものに収まっています。ストーリー上で「二人でユニットを組んでLIVEを行うことを伝えた」のように台詞が地の文として処理されたり、選択肢が「頷く」などの台詞すらない動作であることもしばしば。

「いくぞっ!」のような本当に喋ったまんまのような台詞が出てくるのは稀です。いわゆる普通の台詞にあたるわけですが、僕が違和感を感じるのは、しかしこの部分です。

 

Pの特徴は没個性的ということで説明されます。それが急に「いくぞっ!」などと言うと情熱的な人格が見え隠れして、それが違和感となって感じられたのだと思います。

徹底的に個性を失くすことでPが記号的存在となりプレイヤーをPに代入できるという寸法でしょう。

それを否定するつもりもありませんし、反発する気持ちもありません。

僕は人格の無い存在が言葉を喋るという構造に気づき、ただただ驚いたのです。

 

例えば、浅野いにおの『おやすみプンプン』は、背景やキャラクターが緻密に描かれているのに、主人公のプンプンとその家族だけが落書きのような絵で、これも記号のようになっています。

しかし、プンプンは記憶や経験がしっかりあり個性があるのに対して、デレステのPはそれすらないのです。

 

その点に注意してみるとアイドルたちの会話は彼女たちだけで進むことが多く、Pがいる状況での会話は彼女たちが主体的に話してリアクションも彼女たちがとり、ボケとツッコミの体裁を整えています。時には彼女たちの心の声をも出してストーリーが展開されます。

このほとんどの時、プレイヤーたる我々は観察者です。それでもきちんと話を進めていけるのは構成が上手いなと思った次第です。

 

おそらくアイマスの同人を書いている人はこの問題に直面していて、同人誌には普通に顔があるPがしばしば登場します。時にはコナンの犯人みたいなやつにしているものもあります。

本家のアニメ版デレステでは思い切って、無口でいかついが愛のあるPというキャラ付けになっていました。

 

Pに対するもう一つの違和感は、おそらく自分が小説ベースだからだと思います。

アニメ・映画・漫画・ゲームと色々なコンテンツに手を伸ばしている僕ですが、主軸は小説を読むことにあります。(実はこのブログは書評ブログです)

小説においてPのような存在は思い浮かびません。それは、小説が小説内で完結しているのに対し、ゲームが参加型の消費コンテンツだからではないでしょうか。

小説にも記号的存在はいますし、そうでなくても主人公に我が身を重ねるのは自分をそこに代入していることに他なりません。Pの特異なのは完全に無個性であるにもかかわらず存在する必要があるということです。無個性でも必要というのであるならば「この近所で殺人ですって。恐いわねえ」と言われるためだけに殺される被害者、などが思い浮かびます。しかし、これは演出用の舞台装置的な存在であって、Pのようなメインキャラクターではないのです。言うなればPが無個性でも主体的に存在していられるのは小説で言う読者の立ち位置であるからに他なりません。

思えば、ノベルゲームとは自分が干渉できる読書体験でした。『ときめきメモリアル』でも『かまいたちの夜』でもそうです。

いまさら驚くようなことではないのかもしれません。しかし、Pは繰り返しになりますが無個性であり、それだけ純粋な”機能”に近い存在と言えます。それでもなお、きちんと成立しているのが驚きです。

 

僕がPの違和感から得た謎の感動、伝わりましたでしょうか?


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