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よみしろの読む城

好きな小説を好きなだけ褒めちぎります

愛のむきだし

今回は映画

園子温監督の『愛のむきだし

 

世間的には満島ひかりを大抜擢したのが評判らしく、個人的には監督がとても尖ってて面白いのでずっと気にはなっていたのですがなかなか観れませんでした。

 

と、言いますのもこの映画全部で4時間くらいあるんですね。

 

それと、以前観た園子温監督の『冷たい熱帯魚』がすごく見応えあって、裏を返せば30分観るのも息絶え絶えになるので覚悟が必要だったんですよね。

 

それがようやく覚悟が決まって観たわけですが、さすがでした。

以下、ネタバレしていきます。

 

 

長いので全体的なあらすじは省略して簡単に説明しつつ、心に響いたところをいくつか紹介していきます。

 

 

懺悔

神父の息子ユウが主人公なのですが、ある日、父の元に化粧っ気の強い女が現れ、父をたぶらかした挙げ句捨て去ります。それから父は豹変し息子ユウに毎日懺悔室に来るよう命令します。

 

ユウは真面目に生きていたので懺悔することが思い浮かばずなんとかかんとか絞り出していきます。毎日毎日ユウはめげずにささいな罪を見つけ出して懺悔します。

あるとき、ユウはやってもいないことを懺悔をしたのですが、すぐに父にバレてしまいます。そしてユウは気付きます。自分で罪を作ればいいのだと。

前までは拾ってあげていたクラスメートの消しゴムを拾った矢先にちぎり捨て、転がってきたサッカーボールを遠くへ蹴飛ばします。意気揚々と懺悔し、それを聞いた父は許すのでした。

次第にエスカレートしていき、万引きや喧嘩をする不良集団とつるんでいくのでした。

 

思わず唸ったのは、ユウが何をしようと父が満足そうに「お前は悪い子だ」と確認し許すところ。

冗談のようですが、盲目的になると宗教に深く関わっている人に限らずこのようなとんちんかんなことをしてしまいがちです。

人間は罪深い存在であるから神の許しを与えるという救済が次第にユウを罪深い人間にしていく構造も見事でした。キリスト教に没頭しながらも俯瞰的な視点をもたずにいると、システムを逆回転させてしまう。

誰かが言っていた、あらゆる宗教は不完全な人間が伝承してきた者だからたとえ神が完全だとしても不完全だという言葉を思い出しました。

 

宗教の良い点は信じられる対象を持てるという点だと思っているのですが、それは何も考えなくていいということとは一致しなくて、無知蒙昧でいると良いことをしているつもりで他人を巻き込んでしまいます。

これは、多くの新興宗教の特に信者に多い心理です。今になって思えばこのとき(開始30分くらい)すでに主題となってくる新興宗教の伏線をしかけていたのかもしれません。

 

 

 

 

ヨーコとの出会い

ユウとヨーコ(満島ひかり)の出会いは新興宗教の幹部の手による工作でした。しかし、二人はお互いに運命の人と感じるのでした。

ユウは不良集団とつるんでいくなか、盗撮の達人に進化していました。ただし、彼の動機は自分の「マリア様」を見つけること。ユウは誰のパンチラを見ても勃起することができない人でした。母を早くに亡くしたこともあるのか、母とマリア様と重なる誰かを探し続けているのでした。(これは明言されていないですが、お母さん役と満島ひかりが似てたのは気のせいではないと思うのですよね...)

ヨーコはとっかえひっかえに女を作る父に性的なことをされた経験がある女子高生。男は某イケメンミュージシャンとキリスト以外は認めない。

 

二人は自分を救ってくれる神聖な人を求めている似た者同士です。二人が出会ったその瞬間はチンピラ(仕掛人)を返り討ちにする場面。祭りのようにも見える。

しかし、自分を救ってくれる誰かを求めているのは彼らが特殊な環境に育ったからではないでしょう。誰もが自分を救ってくれる誰かを求めていて、ぼくの感覚では神様と表現されるのですが、あるいはマリア様とキリストである方が適切なのかもしれません。マリア様は母ですが、男性が求めているのは母性愛のような要素もあるような気がします。バブミとか流行ってますしね。キリストは、なんなんでしょう。あんまり知らないです。

彼らが出会ったのはたしかに工作ですが、彼らがお互いを気付いたのは二人とも必死に探していたからだと思っています。ヨーコの方は積極的に探していませんが、泥臭く生きていくことそのものが探求めいて感じました。生きるって求めるってことなんだなぁと、なんとなく思いました。

 

 

勃起を恥じるな

事が二転三転して新興宗教の合宿に巻き込まれ懺悔を強いられたとき、ユウが言ったことです。付け足して「いや、今は勃起より、もっと崇高な感情にあります。愛を恥じるな」

こうして見ると、新興宗教にいる時のユウの方が健全に宗教的な人間になっているのは面白いです。

勃起と言って他の信者に白い目で見られますが、そもそもユウはそれまでに盗難とか喧嘩とか一般に悪いこととされることを散々してきています。それが愛に通ずるのが大好きなポイントです。別に奇をてらっているのではなく本当にそうだなと共感するわけです。

 

さて、タイトルにも含まれる愛です。愛については後半に何度か言及されていきます。高校生の頃の僕は愛について語るのはまだ早いような気がしてて、今になってみると何かが手遅れになっているような気がします。そういう人だったので「愛を恥じるな」が刺さりました。

 

その後、コリントの書13章が全文引用されます。

 

最高の道である愛
たとえ人間の不思議な言葉
天使の不思議な言葉を話しても
愛がなければ私は鳴る銅鑼 響くシンバル

たとえ予言の賜物があり
あらゆる神秘 あらゆる知識に通じていても
愛がなければ私は何者でもない

たとえ全財産を貧しい人に分け与え
たとえ賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても
愛がなければ私には何の益にもならない

愛は寛容なもの 
慈悲深いものは愛
愛は妬まず 昂ぶらず 誇らない
見苦しい振る舞いをせず 自分の利益を求めず
怒らず 人の悪事を数えたてない

愛は決して滅びさることはない
予言の賜物ならば廃りもしよう
不思議な言葉ならばやみもしよう
知識ならば無用となりもしよう

我々が知るのは一部分
また預言するのも一部分であるゆえに
完全なものが到来するとき
部分的なものは廃れさる

私は幼い子供であったとき
幼い子供のように語り
幼い子供のように考え
幼い子供のように思いをめぐらした
ただ 一人前のものになった時 幼い子供のことはやめにした

我々が今見ているのは ぼんやりと鏡に写っているもの
そのときにみるのは 顔と顔をあわせてのもの
私が今知っているのは一部分
その時には自分がすでに完全に知られているように
私は完全に知るようになる

だから 引き続き残るのは 信仰 希望 愛 この3つ
このうち もっとも優れているのは 愛

 

全文引用したのはヨーコですが、圧巻でした。気合いが入ってるのが分かります。

ただ、これは愛の正解ではないのも大事なところです。そもそも正解なんてないというのもありましょうが、それはさておき、愛とは自分の感覚で掴まなくてはならないものであり、引用しているうちはあくまで借り物でしかない。

最後にはヨーコは自分が何でも分かってるつもりで何も分かってなかったと反省していることからも伝わります。

 

とはいえ、愛とは何か真摯に求めていくヨーコの姿勢に、はっとするものがあり自分は何も考えていなかったんだな、と哀しくなりました。

何も分かっていなかったと自覚したヨーコは行動します。ユウを助けに。ユウを取り戻しに行動しました。

 

 

僕らのすべきことは生きることで、求めることなんだ。

動かなくてはいけない。

恥なんか知らない。愛をむきだしにして動くのだ!

 

 

        


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