よみしろの読む城

読んでもわからない人へ送る「僕はこう読み考えた」

一般の方という不快な言い回し

「一般の方」という言い回しに引っかかりを覚えることが多い。

 

最初にそう思ったのは村上春樹オウム真理教の元教団員たちにインタビューをしてまとめた『約束された場所で(underground2)』にあとがきで述べていたことだ。このブログのかなり初期にも紹介したのだが、教団側にいた人たちの印象として「一般の方」という言い回しをよく使うと村上春樹が振り返っていた。

 

これを最初に読んだときは衝撃を受け、今でも「一般の方」と聞くと強烈な違和感を感じている。「普通の人はさぁ〜」などと言ったりするのも同じ違和感を感じるし、学生の「うちらのグループまじで変なやつしかいない。やばすぎ」みたいなノリにも同じ感慨を抱く。

 

この強烈な違和感の正体はなんぞや。

改めて考えてみると「一般の方」とは話者が誰であっても「自分より物事が分かっていない大勢の人たち」という意味なのだ。

 

ここには何層か問題が潜んでいて、一番表面に立ち現れる気持ち悪さは相対評価で他人を貶めて自分を優位に立たせようとしているということだ。

自分は「わかっている」側の人間であって大勢とは異なる特殊な存在だ、とマウントをとっている。

 

もちろん「一般の方」の発言の全てに見下す意図があるとは言えないし、自分を一般ではなく特殊の側に寄せるだけで一般を見下していると判断するのは被害者意識が強いとは思う。

そう自覚したうえで、一般とくくられた側の立場で見てみたい。

例えば「関係者以外立ち入り禁止」の言い方の場合、関係者以外であることによっては虐げられている気はしない。一方で自分が「一般人」のくくりに入れられてしまうと、なぜ低くみられなくてはならんのかとやや不快に感じてしまう。

 

 

個人的な感性による違いにも思われるが、あえてこの微妙な感情を分析すると、「知らなくて当然のことを知らないということを取り沙汰される不快感」と言える気がする。

不思議なことに「一般の方」という言い回しの時だけ「は分からないかもしれませんが」のような述語が続く。「専門外」「関係者以外」は相手に他の専門があることをふまえた単語だということかもしれない。

 

「自分が考えていることを考えてない人は一切何も考えていないように見える」と気づいたことがあって肝に命じているのだが、「一般の方」話者には自分が考えていることについて凡人は何も考えていないという態度が透けて見える。その手の偉そうな人は多かれ少なかれ存在していて、僕の周囲の場合ではそういう人たちが「一般の方」を多用していたというのが恐らく実態だ。

 

ここまでややナーバスに被害者ぶるのを自覚しながら話を進めてきたのは、「一般の方」話者が高飛車だと一般化したかったのではなく僕が「一般の方」と聞いた時に想起する人種をあぶり出したかったからだ。

そしてその背景に潜んでいるらしい価値観が見えてきた。

 

 

その価値観とはつまり、人の存在価値を使えない使えるの尺度で測る態度だ。

どういうことか。 

自分を優位に立たせるというのは、先ほども述べたように相対評価に他ならない。では、何をもって人間としての優劣を決めるのか。

 

百人百様の価値観があるとは思うのだけれど、かなり抽象化すると「人のため」になると思う。というのは「なんで?」という質問の答えにまた「なんで?」を重ね続けて最終的に落ち着くところを究極目的とする処理による。

一口に人のためといっても他人のためと自分のためとがあるから、さながら大乗仏教上座部仏教のごとくに「みんなの役に立つ」と「道理がわかっている」という二つに分けてもよいが、これは蛇足だ。

 

ところで、カントの道徳法則の変形として以下のものがある。

汝自身にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に目的として使用し、けっして単に手段として使用しないように行為せよ

『カント入門』石川文康 より抜粋

ある行為が真に道徳的であるためには他人(および自分)を利用しているのではなく、人間のための行為でなくてはならない、という意味だ。

(本題には関係ないが、カントは道徳法則を幸せの条件だと述べている。例えば万引きして自分の利益を得るのは幸せにみえて、良心の呵責が常に伴うために幸せにはなりきれないくらいのイメージが良い)

 

わざわざカントを引き合いに出すのも大仰な感はあるのだが、「人のため」に生きるという言い方がカントに通ずる見方で、決して突飛なものではないと確認したかった。

なんとはなしに優れた人間というのを思い浮かべると、献身的であったり何かの開発能力が高かったりといった人物像が想像されるが、人間を最終的な目的に見据えるべしというカントの道徳法則と離れてはいないだろう。

 

誤解を怖れずに言えば、役に立つ人はいい人だ。

しかし、人の役に立つという意味での有用性でもって人を評価し始めると、逆に役に立たない人を虐げるという倒錯した事態となる。 

「人の役に立たないお前は要らない」という言い分が見え隠れするのである。

 

人格を尊重する奴がえらいのだから人の役に立たないお前らの人格は尊重するに値しない、と言ってる評価者は何様のつもりかという話だ。

破綻しているように見えるこのロジックだが、しかしサークルを限定すれば成立しうる。というか現実にありふれて成立している。

役に立つ立たないで評価するのは自分がみんなのために働くしみんなといることで自分もメリットがあるという支え合い関係で成り立つ集団のロジックだ。逆に一方的に重心をかけてくるやつは排斥するという性質もあり、役に立たない人が存在することを許さない排他的な集団とも言える。

といっても企業なんかはこれで全然問題なく成り立っていて、というのは企業は生産性のために存在しているため、その目的にそぐわない人は本来加わらない方がいい。

ここでは「役に立たない=悪」である。

 

これのマズイのは一つには既に述べたように「役に立つ」の範囲が身内に限定してしまっていて人格を尊重していないからである。普遍的に正しい価値観では到底ありえないのだ。

 

もう一つは実際上の問題て、役に立つことができない人というのは実在する。障害者の方が代表的だ。

よく障害者の人たちが集まってバザーをしているが、あれが彼らの充実感を得る営みであれば歓迎なのだが、障害者でも役に立ちますアピールだとしたら賢明でない戦略だ。その土俵で戦ってはいけなくて、もっとその前段階の全く役に立たなくても楽しく生きていくという価値観を推していかねばならない。障害を持たない人たちと同レベルでの仕事ができない種類の障害者はいるわけで、そうした人たちが自分も役に立ちますと自分の価値をアピールしてしまっては、必死なアピールが必要となり倍の苦労を自らに強いているように見えてしまう。相手の土俵で戦うべきではない。

だが、そうでもしなくてはいけないくらいには僕らの世界において「役に立つ」ことが求められているのは確かだ。

 

 

こんな社会的な話題に寄ってしまったのは、杉田水脈議員の「生産性がない」につられてのことだ。

あれも生産性がないと判断した背景には有用性によって人を評価する価値観がある。有用性を追求しても成立していいのは、「この支え合い関係に協力的な人間であれば我々の仲間に入ってくれ。そうでなければ出て行け」という排他的スローガンを掲げるサークルに限られるはずなのだが、そのスローガンを国家が採用してしまうのが論外なわけだ。そこに生まれただけの人が非選択的に所属する集団が排他的であってはいけない。

LGBTにも生産性があるという反論もさっきの障害者の方々を例に挙げたの同様、そこの土俵で戦ってはならないと(最近ではよく見かける)結論に至るのだが、まぁ杉田議員的には「一般人」にはわからない深いお考えがあるのだろう。

 

 

冗談はさておき、国会議員が有用性の尺度で人を測るのは本当に論外だ。しかし、翻って杉田議員をなじっている我々のうちにも有用性で人を測っている向きがまま見られる。

言葉の乱れというのでもないが「一般の方」と使うとき、杉田議員と同じ側にいるんじゃないかと感じることが多いという日頃のもやもやを吐露してみた。


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