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思惟漏刻 [モテるとはどういうことなのか考えていた]

友人と久々に会った。久々にと言っても他の人も交えた集まりで二週間くらい前にも会ったのだが、以前は毎日のように会っていた間柄であるし、大勢の中に紛れているのと特に気心の知れた数名の中の二人とでは雰囲気も異なるものだ。

 

近況報告というほどでもないが、その友人が大学の授業で面白いものがあったと教えてくれた。

ディスカッション形式の授業で、前回は「好きとは何か」がテーマだったと言う。毎回、恋愛周りの言葉を議論しているようで、次回は「モテる」がテーマらしい。

 

思考に瞬発力がないのが僕の弱点で、ゆっくり考えてたまに文字に落とし込んで、何度も書き直してようやく人に伝えられるレベルに整理がつくのだ。だから、それについてもっと掘り下げてみたかったのだが、その場はそれで終わってしまった。

 

家に帰ってから考えて、まず思いついたのは「モテるとは相手にとって気持ちのいい嘘をつけることだ」というアフォリズムめいた文句だった。

しばらく考えていってもこの考えはそう変わらなかった。

 

少していねいに、そこへ至る道筋を述べてみようと思う。

 

 

モテるというとき、主体性はどちらにあるのだろうか?

 

例えば、ある人が多数の人に抜きん出て好印象を与える場合、その人はモテていると言われる。最も一般的に想定される場面は異性との関係性においてだが、就活でたくさんの会社から内定をもらうときにも比喩的にモテると言われることからも、本質的には異性関係に限らず、引く手数多の状況を言うのだろう。

 

さて、これはモテる人に原因があるのか、モテる人を好きになった外野に原因があるのかというのが気になった。

もちろん双方の要因が織り合わさってのことだとは思うが、わざわざ回り持った言い方をしたのは、普通、ある人がモテるのはその人にモテるだけの何かがあるからだと思われるからだ。よく知らないが、多分モテるの語源もそこにあるだろう。「何かを持てる人が評価されるに値するため好かれる=モテる」というのが普通のイメージだと思う。

 

半ば脱線になるが、儒教について個人的に受け入れがたいことを思い出す。

儒教は、そこから派生した朱子学もそうだが聖人君子となることを目した学問であり、徳を身につけることに主眼を置いている。徳を備えた聖人が礼楽刑政を統率するべきだと説くわけだが、この徳というのが人間の価値を一元的な尺度で測ることを暗に意味しているようで気に入らないのだ。徳を備えた人ならば理がわかっているから何をしても良い方向にいく、のような一見良い話だが結論部分の曖昧な言い分が中身がない理想論めいて感じる。

 

なぜ、この話をしたかと言うと、一元的な尺度で人物を測る違和感と同じものを今回の話題においても感じたからだ。モテる人に、言うなればレベルみたいなものを暗に想定していて、つまり、人間的に優れているからモテるのかのように考えていないだろうかと思ったのだ。

しかし、モテるやつは全部すごいから付随的にモテるのではなく、モテるためのある種の性質が備わっているからこそモテるのだと考えるほうが妥当だろう。実際、同性から見ればいけすかない人間が異性に人気があることもある。

 

では、肝心のある種の性質とは何かというと今度は客体の問題になる。

なぜなら、「モテるためのある種の性質が備わっているからこそモテる」は言い換えれば「ある種の条件を満たしていればモテるという高い評価が得られる」であり、人物を評価するのは本人ではなく他者だからだ。平たく言えば、モテる人に惚れた外野はその人のどこに惚れたのかにモテる理由を解く鍵があるということだ。

その性質やら条件やらと呼んだものが冒頭でネタバラシをした「気持ちよくしてくれそう」ということだ。

 

少しちらかったので整理すると、モテるとはモテている人物の行為ではなく、動作主体はその人を好きになった人である。第三者視点で見れば、モテる人はある種の条件を満たすと多くの人から高い評価を得られるということになるが、その条件とはなんだろうかと考えていくためには、先ほど外野と呼んだ動作主体の心的状況について考えればよいだろう。

 

 

外野の主観

 

条件という言葉はある面から見れば、要求という概念を暗に含む。この場合、要求するのは他人であり本文の言い方で言えば惚れた外野だ。

冒頭で「気持ちよくしてくれそう」と言ったのは自分の要求に応えてくれそうという意味だった。

 

この要求は意識的なものよりも無意識的なものを想定している。好きなタイプを聞かれたときの答えが意識的なものにでもなろうが、その場合でも本心があっての言い分である。

例えば、常日頃から背が高い人が好きと言っていた人が背の低い人と付き合って、自分の求めてるのは身長がどうこうじゃなかったなどと言っても言行不一致だとは謗る道理はないだろう。

表明するかどうかや自覚しているかどうかはさておき、本心では自己肯定感を求めていたりするもので、そちらに感情の根があると考えるのは何も不思議なことではない。

というよりも、無自覚なことは特に女子の場合多くて「私をどこかへ連れてって」的な要求として現れる。

具体例をあげると、『君に届け』の風早翔太は自己肯定感を与えてくれる優しいイケメンで、『溺れるナイフ』の長谷川航一朗(コウちゃん)はどこか遠くへ連れて行ってくれそうな荒々しいイケメンだ。

(余談ながら筆者は『溺れるナイフ』がとても好きで、本ブログで幾度となく観なければ絶対に損だと書いている)

 

話がとっちらかってばかりで申し訳無いが、好きになるうえでコアなのは本心からの要求だと考えている。

本心から求めている何かを与えてくれる人が現れた場合、人は惚れ、求めている何かを与えてくれそうな期待感を相手に抱かせる人がモテるのだと考えた。

 

モテるというのはその人に惚れた相手の多さにこそ特徴があるのだろうが、そのわりにこの惚れた腫れたの関係は今のところ本人よりも外野の主観に原因を求めてしまっている。各々が自分なりの期待感にそぐう人を好きになれば感情のベクトルは集約せず分散しそうなものだが、現実でそのような事態にならないのは期待に応えてくれそうなイメージや各自の抱えている要求がだいたい同じだからだ。

モテる人間はそれぞれの期待にある程度応えられる、ないし答えられそうな雰囲気をたたえているからそうなっているわけで、やはりモテるにはモテるなりの理由があるのだ。

 

いわゆるモテる人というと、美男美女だとか笑顔がいいとか優しいとかそういう特徴が挙げられるが、これらは無意識の願望を具現化した際の個々人のイメージなのではないかと思う。

身体的特徴のような具体的なものと違って無意識の願望の方はバリエーションが少ない。本音を言うと自己肯定感とどこかへ連れてって的な願望以外思いつかないのだが、ともかくも少ない。

そうしたものの具現化したイメージはそれぞれの育った環境にある程度依存するとしても、元が同じである以上、似通ったものにならざるを得ない。同じ文化圏で育ったのならばなおさらだ。それゆえにある種の性質を備えた選りすぐりの何人かが多くの人に好かれるという状況が発生するのだ。

 

そういえば、例の友人から前回の授業で「好きとは何か」に対する回答として代替不可能な唯一の自分を認めてくれることで好きになるというのがあったと聞いた。それに当てはめるならば、モテる人とは「代替不可能な唯一のあなたを認めてあげますよ」という雰囲気を出している性質を有している人のことだ。実際には「あなた」は代替可能な変数であるかもしれないが、判断する人がそう感じさえすればいいというのは再三繰り返してきた通りだ。

 

 

承認欲求ゲーム

 

ところで、ほのめかしておきながらまだ触れていない単語があった。冒頭で、モテるとは気持ちよくさせる『嘘』をつけることと言ったのがそれだ。

モテるとは外野の主観の問題であるというのが一貫した主張なわけだが、すると、その評価が独りよがりで本人の人物像からずれていたとしてもモテる現象は起こりうることになる。裏を返せば、周囲の人間に都合のいい夢を見せることが出来さえすればモテることにはなるまいか。

先ほどから嘘だとか都合のいい夢だとか棘のある言葉選びをしておきながらなんだが、平たく言えば自分を良く見せようという行為であってそれが悪いことだとは微塵も思っていない。例えば身だしなみを整えようというのも、テレビタレントが関係者総員により作られたイメージであるのも広義の嘘だと言えるが、嘘は嘘以上の何物でもなく善悪の判断はこの時点では挟まれない。何事も悪用しようとした時、悪と呼びうるのだ。

モテる人の言動は魅力的に映るからこそモテるわけだが、それが演技か素かというのは問題の範囲外となる、というだけのことだ。

 

もちろん、嘘をつくまでもなくモテる人もいるから、必ずしも嘘をつくことは要求されないのだが、モテるための嘘をつくのにやぶさかでない人について少なくともモテる下準備ができているとは言えるだろう。

特にパッとしない人がモテようとするためには実際以上に自分をよく見せることになるのだから、多かれ少なかれ嘘をつく必要に迫られる。

 

しかし、どのような嘘をつけばモテるようになるのだろうか?

それは、あらかじめ述べたように本心からの要求に応えるというのを軸として行えばいいだろう。具体的な理想像は人それぞれと言えど、清潔感などの大半の人に共通なイメージも多い。

もっとクリティカルに要求に応えようとするなら、例えば自己肯定感について言うと、承認欲求を満たすこととほぼ同義になる。してみると、ある種のモテる人間は承認欲求を与え、回り回って自身の承認欲求を満たせるという承認欲求ゲームの強者であると言えるかもしれない。

あるいは、現状不満足型の「私をどこかへ連れてって」願望の持ち主には毅然とした態度が受けるだろうし、時には逆説的だが相手の(表面的な)希望を無視することでもっと根源的な願望を満たせる場合もあろう。それでも、自分の存在を認めていることの裏返しであると見れば、これも承認欲求ゲームのバリエーションと言えるかもしれない。

 

 

適切な関係へ

 

個人的な話をすれば、モテることに大した憧れはない。何もしないでモテるのなら大喜びだが、現実的にはモテるために相応の努力をしなくてはならない。

しかし、無いセンスを駆使して身だしなみを整えるのは大変だし、嘘をつくのはなおさら疲れる。

 

嘘については掘り下げていきたいところではあるが、これはこれで沼なのでここでは簡潔にまとめると、嘘はタダでは無いということだ。むしろ、お金では代償不可能な分、心に負担がかかる。例えば「君が一番綺麗だよ」とでも言おうものなら、一番ではないものの少なくとも綺麗だと思っている前提で今後行動しなくてはならず、長期にわたり言動の制限がかかる。どこかで整合性を失う可能性が高い。「嘘でもいいから」とも言うが「だってこの前そう言ったじゃない」とも言われたりするから、「嘘でもいいから」の意味は「本心で言うか、死ぬまで隠し通す嘘でいいから」だったりするから、嘘がタダなわけがない。

だから個人的には後々面倒にならない範囲でしか話したくない。僕が許容できるのは「君が一番綺麗だよ」の代わりに「その服似合ってるね」とするくらいまでだ。

(ちなみに「この辺の人の中では君かあそこのピンクの服の人が一番綺麗だよ」などの正確な描写はアウト。真実は往往にして残酷なものだから、気持ちよくいるためには隠されていなければならない)

苦労はしても相応な報酬があれば努力しようと言う気にもなるのだが、承認欲求についても実は無批判には受け入れたくないと感じているので報酬として不満が残る。この辺りは整理がついていないし、現段階では個人的な話に過ぎないので割愛する。

 

モテることに魅力を感じない他の理由としては、演じている自分が多くの人にモテても仕方ないというのがある。と言うよりも、素のままでも維持される関係を構築することの方が大切で、積極的に多くの人に好かれようとはなかなか思えないのだ。その果てにあるのは媚びなくては維持されない関係だからだ。もちろん、関わる人の幅を広げるために周りを気分良くさせたり、衝突をさけたりするのはかまわないのだが、不断におだてたり媚びたりする必要のある関係は嫌だという話だ。

しかし、少しオーバーな言い方をした。というのは、普段から媚びないとやっていけない関係性のうちに身を置いていないし、逆に親密な関係性でも「親しき仲にも礼儀あり」の精神がないと関係は維持されないように、我々の人間関係は普通どちらかの両極に別けられるものでは無いからだ。

と言えど、ここには有事の際に決定的になる差があると考えている。

 

自分は、これらを「してあげる」ベースの関係と「させていただく」ベースの関係という対比で分類し考えている。というより、最近のマイブームなので、おまけに書き連ねていきたい。

 

前者は貸し借りで均衡を保っていて、後者は尊敬や感謝により自然に維持される。貸し借りの均衡は過激な言い方をすれば犠牲と見返りの均衡であり、どちらかが過負荷に感じてしまった場合に「してあげる」が「してやったのに」に転化する危うい関係性だ。

可愛くてモテる女の子と付き合う男性は「可愛がってあげる」わけで、十分な見返りがない場合「高いプレゼントを買ってやったのに」などの「恩を仇で返された」ような気持ちになる。

損をした分だけ得をしてほしいみたいな欲求はわりと自然なものではないだろうか?

仏教説話などできちんと因果応報が成り立っているのも、現実的ではないとは思ってもスカッとするものだ。

 

ところで、この貸し借り関係において最悪なのは、頼んでもない我慢をしたあげく「してあげているのに」と糾弾するケースだが、恋人関係においてありふれた破綻の構造でもあるのは事実だ。

この破綻を避けるために互いの要求を網羅的に可視化するのも一つの解決策だが、要求に漏れがあることは不可避であるのとかなりの労力をかけなくてはならないため誰彼ともやれることではない。

 

それゆえに自分は、適切な関係を「させていただく」ベースの関係に求めて鋭意検討中なのだ。

「してあげる」関係において起点は個々人が自利を求める態度にあり、「させていただく」関係ではそうした態度をある程度脱却できそうだと期待している。(ちなみに、人は真に利他的になれるか?という問いは筆者が向き合っている人生二大疑問のうちの一つだ)

それから、これが自己目的的な関係(関係を維持するために関係を維持している関係)な点などもかなり希望を持っているのだが、尊敬とはなんだろうかというところで躓いている。

 

余談が過ぎたうえに、自分なりの結論が出ていないものを投げる形になってしまった。

モテるについてという本筋に強引に戻って関係性にまつわる話にからめると、モテることは見返りを求める姿勢が根底にあり、承認欲求ゲームに溺れると、果てには「してあげている」ベースの危うい関係にたどり着きかねない。

しかし、人当たりがいいとでも言い換えられる窓口の広さとしてモテることにかなりポジティブな意味を認められる。

出会い頭にいきなり素敵な関係になれるはずもなく、今後も付き合っていきたいと思ってもらえないとその先は無いのだ。自分の中の人当たりの良さを前面に出すくらいの労力はより良い人間関係のためには必要で、その技術はモテる技術と通ずるところがあるように思える。就活もモテるやつの方が強いというのが持論だ。

 

相手を気持ちよくさせられる(たいていの場合)嘘をつけると社会生活を円滑に営むことができるだろうし、それがこと恋愛に絞って語られる場合、モテると呼ばれることになるのだろう。


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