思惟漏刻

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分かりやすい悪を叩く

ツイッターをやっていると時たま思うことですが、分かりやすい悪者を叩くのが好きな人がちょっと多すぎる印象があります。

誰の目にも悪いと分かる悪者を仕立て上げてタコ殴りにして、気が済んだら放ったらかしという態度はどこででも見受けられるので、ツイッターに限った話ではないのですが、やや食傷気味です。

 

直近で言えば、「スーパーのお惣菜コーナーで主婦に向かってポテトサラダくらい自分で作れよと老人が言っていた」といった旨のツイートが拡散されていました。なるほど老人の言っていることは徹頭徹尾、間違いです。ポテトサラダはそんなに簡単に作れるものでもない。それを知らないからそんなことが言える。手間を省くことへの個人的な嫌悪感を見知らぬ他人にまで押し付けている。あらゆる角度から老人に対して否を突きつけることができます。

僕がうんざりしているのは、老人の振る舞いよりも、明確に悪者と認められる老人を叩く人がこうも多いということです。
あらかじめ予防線を張っておきますが、このように述べることによって老人の挙動を擁護する意図はありません。また、批判の矛先はツイート主に向いておらず、拡散した人たちに向いていますが、かといってリツイートをした全ての人を批判の対象としているのでもありません。

(バズったツイートは元々バズらせるつもりで投稿されたものではない何気ないツイートであるため、拡散されたことに対して責任を求めるべきではない、という考えです。いま問題視しようとしているのは、他人の言葉に便乗して安易に誰かを叩く人たちの行動です。)

 

 

要点はこうです。

分かりやすい悪者を叩くことの根源は深く、様々な場面で見受けられる。そうした態度が顧みられることが稀であるように思われるのだが、物事を安直にするあまり認識が甘いまま放置してしまうことになるまいか。といった具合です。

概観はこのくらいにして、もう少し話を詰めながら最初から始め直したいと思います。

 

分かりやすい悪を叩くとは何か?

文字通りのことではありますが、何か許しがたい出来事が起きたときに、その出来事に関して「全ての原因がある誰か」を想定し、その悪者さえ倒せば全てが解決するかのように攻撃するということを指しています。

少し前の黒川検事長についても、あの場で議論とされるべきは立法機関としての運営に問題がなかったかや、検察庁法改正案の中身についてであったはずですが、いつの間にか黒川検事長を辞任に追い込めるか否かのゲームに成り代わっていました。実際、最終的には賭け麻雀疑惑により辞任に至りました。本来議論されるべき物事の方からのアプローチではなく、黒川さんが悪事を行う人であると暴かれたことで事件の熱は冷めていきました。この件についても、諸悪の根源を排除しさえすればキレイになるという短絡的な発想の陰がちらつきます。

(もちろん、検事長がどのような規模であれ法を犯したことは重大な問題ではありますが、発端となったいざこざから問題がすり替わっていることをここでは問題視しています。とりわけ、当初の問題は悪者の排除によって解決されたかのような雰囲気になってしまったことについてです。)

 

この分かりやすい悪を叩くという姿勢は、陰謀論者にしばしば見受けられます。不可解な出来事があれば、裏で手を引くものの陰謀によるもので、そいつが既得権益をきっちり握って離さない限り、我々市民は搾取され続けてしまうのだ。と、こういった論法です。

最近では異常気象の原因を5Gの電波のせいにするなどのバリエーションもありますが、理解できないことに対して、特定の要素に全ての原因を押し付けるという点では同じでしょう。分かりやすい悪がいれば、何に怒ればいいのか、どう解決すればいいのかが明確になります。ですが、悪者とみなすに至る根拠が薄弱であったり、偏ったデータに基づくものであったり、いずれにせよ判断するにはあまりに早急であることが多いです。

そして、この早急すぎる悪者認定は、陰謀論者だけではなく陰謀論者を叩く方の人間にも見受けられます。あいつらは話のわからない連中だから馬鹿にして良いと、特に文脈を読み込むこともせず、主張とは関係のないところで批判している場合などもそうです。

 

陰謀論者を叩く人というよりも、誰かを攻撃したがる人にそういう傾向が強いかもしれません。経験的にはツイフェミ(ツイッター上で議論を行うフェミニスト)が悪者認定され攻撃対象になりやすいです。ツイフェミは何にでも噛み付く話の通じない相手という常識に基づき、主張が切り取られて拡散され、不当になじられているのをよく見かけています。もちろん、本当に見当違いなことを言っている人もいますが、発言時の文脈のもとでの意味と全く異なる意味で理解され、精査されていない誤読に基づいてツイフェミを叩く言説はあまりにも多いです。

 

他の例を見てみます。これも老人を非難するツイートですが、「マスクを着けずに乗車した女性に対してきつく怒鳴りつけた老人が次にマスクを着けずに乗車してきた筋骨隆々とした男には何も言わなかった」ということが言われていました。これもまた、基本的に誰も老人を擁護する気になれないほど明確に老人に非がある例です。

ここで整理したいのですが、老人はマスクを着けるべきだという昨今の常識に基づき、それに反する人を糾弾しています。これは分かりやすい悪を叩くことそのものではないでしょうか。そして、このツイートに嬉々として乗っかり老人を非難する人たちは、ある意味では自分がその老人と同じことをしているのですが、そうした自覚があるようには思われません。

 

印象論となってしまうのですが、分かりやすい悪者を求める傾向は甘くみてはならないと感じています。 以前、なろう系小説のタイトルが物語の内容を要約しているとして、嘲笑されていました。なろう系小説はそれまでにも主人公が何の苦労もなく敵をボコボコにしたりちやほやされたりという筋が馬鹿にされてきました。

ですが、分かりやすい話を好んで、気に入らない相手を一方的に攻撃して気持ちよくなるという傾向を馬鹿にするとき、どれほど他人事でいられるのでしょうか。分かりやすい物語を設定して、諸悪の根源を排除し続けるという傾向は、自分とは遠い出来事ではいられないように思います。

 

マスコミがこうした傾向を煽って誘導していることは知られ始めています。ですが、そのことでもってマスコミを「マスゴミ」などと揶揄することは、マスコミという分かりやすい悪に全責任を負わせて叩くという全く同じ構図から抜け出せていません。

 

では、どうしたらいいのでしょうか? 何が問題なのでしょうか?

端的に言えば、我々は「判断の保留」がおそろしく苦手なのだろうと思います。「部分的な肯定・否定」のような中間的な理解が苦手なのだと言い換えてもいいかもしれません。悪いとなったら完全に悪いとした方が楽ではあるでしょう。いい人だと思っていたからこそ、ちょっとしたことで失望してしまうのでしょう。

もちろん何かしらの原因を見出し、それに対してアプローチをせねば解決には至りませんから、悪者らしきものが登場することは避け得ませんし、それ自体は間違った道筋ではないと思います。現実は基本的に中途半端で、良いとも悪いともつかないことだらけですので、正しく物事を認識しようとするならば、スッキリしない結論に至る方が普通だということは了承しておくべきでしょう。

実際のところ正しく物事を認識できたところで、我々には解決できないレベルの問題ばかりです。 ですが、解決に直結しないからといって問題を誤った認識のもとで捉えると、擬似問題ばかり扱うことになり、どこにも向かうことはありません。さらに、もし悪と分かってしまったら言われのない罪で人を罰することにもなりましょう。この「もし」が蔓延っているという話が今まで取り上げてきましたものです。

 

分かりやすく悪いものを叩くのは気持ち良いことですし、自分が責められることもないですし、問題の構造を宙ぶらりんのまま放置しないで済む分、とても楽ではあります。ですがそうすることによって、いわば認知的責任を放棄しているということには自覚的であった方が良かろうと思います。

「罪を犯したことのない者だけが石を投げていい」というイエスの方便を、現代日本に合わせるなら「罪を犯した者の背景や意図をよく聞いた者だけが石を投げていい」とでもなりましょうか。安易に石を投げちゃダメです。

 

以上、かなり印象論で語ってしまいましたが、引っ張ってきた具体例はどれほど一般的事実として妥当しうるか、行った分析がどれほどの人に該当しており、どれほど正確に描写できているかは、疑問が残ります。しかし、さほど重要なことではありません。僕がやりたかったのは社会分析ではありません。

もし、分かりやすい悪者を叩くことをしていたならば、そこには多くの問題が潜在的に含まれるがゆえに、反省されるべきだろうという視点を提示したく、長々と文章を綴りました。荒削りな論で反論も出てきそうではありますが、せめて言いたいことが伝わっていれば幸いです。


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