思惟漏刻

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嫌いな人に第一子が誕生した

単なる愚痴になるかもしれない。

 

表題の通りだ。

嫌いな人とは大学の研究室の指導教官で、もう数ヶ月前になるが第一子が誕生した。

 

子供が生まれますと聞いて、まず思った正直な感想は「うわぁ」だった。

 

もちろん声には出していない。わりと非人道的というか社会に馴染まないリアクションである自覚はあるのだが、感じてしまったものは仕方ない。

言い間違いを心理学で扱う時と同様に、とっさの反応はその時点での自分の考えや趣向が重なりあっての結果だろうと考えられ、この「うわぁ」には様々な含蓄がありそうな予感があった。そして、考えを巡らせるうちに自分の人生観みたいなものに通じるようだぞと判明し、せっかくならば一つ整理をしてみたくなった。

(という気持ちは嘘ではないのだが、指導教官へのイライラを吐き出したい気持ちがそれなりに大きいモチベーションであることは認めざるを得ない)

 

   

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「うわぁ」の内実

あの日見た「うわぁ」の名前を僕たちはまだ知らないが、直感的に予想される構成要素は以下の二つである。

  • 指導教官が嫌い
  • 人間の誕生を素直に喜べない

 

指導教官が嫌い

一般に指導教官とは実験の方針を指導したり、論文の相談相手になったりしてくれる教員で、大学生から見れば論文を作成するために乗り越えなくてはならない壁のような存在でもある。

だから、学生に指導教官に敵愾心を抱くのは半ば宿命じみている。

僕の場合も嫌いとは言っても、卒論のための建設的指導・親切心を捻じ曲げて解釈してしまっている可能性がある。

 

 

というのをまず排除する。

現在、残り二ヶ月で卒論の要旨を提出しなくてはならない時期であるにも関わらず、僕は卒論用の実験をできていない。他の学科同期はすでに実験は終わっている人もいて少なくとも半分くらいは終わっているのが普通であり、手付かずの状態はかなり遅い部類である。

こうなってしまった理由は、年始に計画を立てたときには予定されて無かった研究室としてのお仕事が途中にぶっこまれたからだ。僕の指導教官は研究室のボスでもあるのだが、奴が安請け合いした仕事はすべて学生に回ってくる。なぜなら教員は自分で実験などしないからだ。

ともかく、本来であれば自分の卒論を始めていた時期に新しく二ヶ月かかる業務が入ってきた。

ちなみに、当たり前だが無給だ。というより学費を払っているからマイナスだ。

勉強になっているのかというと微妙なところで、確かに特殊な技術を使ってはいるものの、作業内容としては同じであり初期を除いては勉強になっているとは言い難い。

さらに実験の性質上、1日あたり12時間くらい平気でかかる。場合によっては10時から翌2時までかかったりする。調べたらひどい時の月労働時間は過労の基準値の倍くらいになっていて、「あぁ、これは人間が死に得る労働環境なのだな」と逆に安心した。

また「実験とは極めて特殊な単純作業なのだ」と痛感する日々だった。

ともかく、1日あたりの労働時間はある程度仕方ないとしてもハードな予定をぶちこんで卒論を先送りにされたことに怒るくらいはいいだろう。

第一、僕は個人的な事情があって早めに卒論用の実験を終わらせておきたいと再三告げていたのだ。このマネジメント能力の低さがまず許せない。

 

そして、悪いことに奴の性格も気に入らない。

奴はどうやら肩書き通りに指導者のつもりらしいのだが、僕が質問に行くと詳しいことは博士課程の先輩に聞けと答える。

では、奴は何をするのか?

僕が失敗した時になってようやく「どうしてこれをやらなかったの?」と質問するのだ。

バカじゃないのか? 何か理由があって手順を一つ忘れたとでもいうのか。お前は今までなんの注意喚起もしてこなかっただろう? なのになぜ失敗してから突然責めようという気を起こせるのか。まるで疑問を持つことが科学的であるかのように建設的に質問をして楽しいか。お前のは科学じゃなくて腹いせに八つ当たりしてるっていうんだバーカ。どうせ疑問を提示したら満足して科学者面してるんだろ。いいご身分でやがる。

 

と、まで言うのは邪推に近いが、知らん。

こちとら迷惑被っているんじゃい。

無給で労働してるんじゃい。責任までとってられっかいってんでい。

 

それから、雑談のつもりなのだろうが教授会の愚痴をよく言うのも嫌だ。

それをフレンドリーさと取り違えている節があり、自分としては気兼ねなく会話できるアットホームな研究室というつもりなのだろう。

そりゃ、あんたは楽しかろうな。

 

 

はい。

 

はい、ストップ!

ここら辺でストップ!

愚痴を聞かされ続けるのはストレスだ。読者のみなさまに申し訳ない。

クソなものがいかにクソかを延々と語ることには何の建設性もない。愚痴を言って上から目線で避難してなんてのは奴と同類。それはごめんだ。

 

ともかく!

ステレオタイプ的に指導教官を嫌っているのではなく、個人的に不利益を被っていて、かつ、性格的にもソリが合わなくて嫌いだということだ。

 

 

その指導教官に娘が生まれた。

「うわぁ」と思ったのは嫌いな人の幸せが不快だということか。

奴にはどんな幸せも認めたくないということか。

それは多分、違う。

他の何事か嬉しそうな報告をする奴を見て、不快に感じないのが根拠の一つ。

 

ここにおいてもう一つ大事なファクターを提示する必要がある。

 

僕は人間の誕生を素直に喜べないのだ。

 

 

 

人間の誕生を素直に喜べない

あの時、感じた「うわぁ」には「大変だなぁ」というニュアンスがあった。

自分の人生を考えた時、やっとこさここまで生きてきてなお寿命までだいぶ残っていそうで、そのくせ毎日は平均的に苦なのだ。

要するに、人生そんな楽しくない。

ブッダも言ってた。人生は苦だって。

 

老後は体が不自由になってくるし、社会人の知り合いを見ていると仕事は大変そうだし大学生だってご覧のように楽じゃない。

人生は先行きが真っ暗なのに、なぜ子供の誕生を祝おうという気になるのかが分からない。

その子はこれから人生をやってかなきゃならないんだぞ?

子供を産むっていうのは否応無しに人生を押し付けることだぞ?

と思ってしまうわけだ。

 

たまにある「いい話」で

親の親の親の...と遡って行くと2倍ずつ増えていって膨大な人数の先祖がいて、その一人でも欠けたらあなたは生まれなかった。あなたがここにいるのは奇跡なのです(美声)

みたいなのがあるけれど、その一人でも欠けたら僕は存在しなくて済んだと言い換えたくなる。

だって人生大変だもん。

それなのに本人史上最も人生が残っている瞬間の生まれたてベイビーを祝福するのがとても不思議で仕方ない、というのが口説いようだが僕の印象だ。

 

ついでに余談だが、僕は子供嫌いだと思っていたのだが認識を改めた。どうやら「子供に対する大人の態度」嫌いであったらしい。誕生を祝うとかもそうなのだけど、子供の純真さを過度に美化したりとか、なぜか赤ちゃん言葉で話しかけたりとか、そういうのが全般的に無理なのだ。その煽りで子供を嫌っている面もあるのだと自覚したというわけだ。

まぁ、子供っぽい言動とか自己中心的なところとかは嫌いだから子供そのものも苦手ではあるのだけれど、それはどちらかと言えば僕の心が狭いせいだ。

 

 

話を戻す。

僕は人生が大変だと常々感じているので子供の誕生を素直に喜べない。ゆえにあの「うわぁ」にはその子の人生への同情みたいな含蓄があるのだ。

けれども、どの子供に対してもそのようには感じないわけで、やはりあの「うわぁ」は指導教官の娘であることと相まってが感じた「うわぁ」なのだ。

具体的には、その子は一生「××の娘」の烙印を背負うのだという事実が脳裏をよぎり、それを意識したときの厳しい思いというか、奴を父として育っていくことへの哀れみに近い感情が「うわぁ」だ。

 

とはいえ、僕にだって子供の誕生を祝うことがある。

尊敬している大学の先輩に子供ができた時にはいいなぁと思ったし、この前の能登麻美子の懐妊はめちゃくちゃ祝いたい気持ちになった。能登麻美子の子供ならこの世に10人くらいいてもOKな気がする。

だから、何かと理屈をつけてはいるものの人生を肯定的に受け入れる余地はまだ残っているのだ。条件が恵まれていないと祝福には至らないめちゃめちゃ狭い余地であるにしても。

 

 

 

「うわぁ」分析から見えるもの

ここまでの「うわぁ」分析を通して、奴への不満をぶちまけつつ子供への無条件な態度への不信感みたいのを書いてきたのだけれど、当初は自分の人生観が垣間見えそうだという目論見があった。

 

 

そう感じたのは先祖の一人が欠けたら自分は存在しなくてよかったというくだりに代表されるような生への忌避感が論理的に変だからだ。 

 

単純に考えて、そんなに生きるのが嫌ならやめれば?となるはずで、にもかかわらず僕は今もなお生き続けている。不思議なことに。

これは僕の人生における二大疑問の一つだったりして結論がついてないというか、何を考えてもここに帰着して困るみたいな疑問である。

 

「うわぁ」をめぐる思索を経て到達した一つの回答は、死んだら終わりだからというのと幸せが最高の価値だと信じていないからだというのだ。回答二つか。

 

ここで「続きは有料記事へ」とかにしたら小遣いくらいは稼げるんでね?という黒い欲望が発生するのを抑えつつ、しかし、あんまり話を広げるとタイトルから離れすぎてしまうし自分が長い記事読むの得意ではないので、続きは別の機会に記事(無料)にしよう。

 

とりあえず今はアウトラインだけ。

死んだら終わりというのはそのまんまで、もしかしたら生きることの方が圧倒的な価値があるとわかる瞬間がくるかもしれない。死は究極の機会損失だから、人生がよくわからないうちは頑張っていきなくてはいけないなと、義務感のようにして一生懸命生きている。

幸せが最高の価値だと信じていないのは、手段を選ばなければ幸せなんかすぐに獲得できそうだからだ。自分が素晴らしい人間だと思い込んでいる頭の中ハッピーセットな人とかがそうだけど、妥協してしまえば幸福度が高まる。もっと言えば薬をキメれば一発だ。成長トレードオフでなら幸せを獲得できる。それは一時的な幸せであるかもしれない。というか、幸せに質があるとしたらかなり粗悪な幸せのような気がする。僕は頭の中をハッピーセットにしたいわけではなくて、幸せを犠牲にして成長を求めているわけだ。またしても義務感のようにして生きている。

 

自分の中でもうまく整理がついてない話で、闇が深まる予感いっぱいなのだけれど、こういうことを考えることに関しては楽しい不幸体質なので、機会があれば書いていきたい。


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