よみしろの読む城

読んでもわからない人へ送る「僕はこう読み考えた」

思惟漏刻 [走る社会性動物]

考えたことを書く。言うなればエッセイのようなものをしてみようと思う。

以前から、自分でノートに書き散らかしてはいたのだが、放ったらかしになっていた。それもそのはず。汚い字にまとまりのない文章だから読み返す気にならない。他人に見せることを意識した文章なら幾分マシになるだろうという期待を込めてここに載せることとした。

内省のような文章になりそうだから、読んで面白いと思わせることを目しておらず、一対多のコミュニケーションらしからぬところもあると思う。しかし、同じ人間であるから共感するところがあるだろうという見通しのもと、そして熟考はより深い共感をもたらすだろうとの信念で面白い文章を目指すつもりでいる。

 

タイトルの「思惟漏刻」は造語だ。

文章を書くときに常々感じていた思考の漏れ出る感覚を表現してみた。刻の字を足したのは文章は書いた時の思考を刻んで残すような一面がある印象が強いからで、思考でなく思惟にしたのは音の響きで格好つけたのもあるが、熟考すべしとの自戒も兼ねている。

 

 

そもそも格好つけてエッセイじみたものを始めようと思ったのは、フルマラソンの感想を書いておきたいという気持ちが発端だった。せっかく走って、思うところがあったのだから何か書き留めておきたいと思い、はや二ヶ月という有様で、なかなかみっともないのだが、こういう自堕落さも文豪の随筆っぽくて良いなと酔いしれるのだからほとほと救いようが無い。

 

さて、そのフルマラソンだが、走るのは実は三回目だった。フルマラソンを走りきった人は、その後も繰り返し繰り返し参加する人が多い気がする。走りきるたび「もうこれで最後かなぁ」などと思うのだが、気付くとある時、新たなフルマラソンにエントリーしているのだ。

フルマラソンにはそういう中毒性みたいなものがある。なんというか、自分がぎりぎりできる範囲のことが目の前にちらついているとやらなければならないような気持ちになるのだ。

村上春樹の『ノルウェイの森』で永沢さんがなぜ女をひっかけることを止めないのかと聞かれた時のことを思い出す。

 

「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあっただろう? あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わかるか?」

 

ドストエフスキーが賭博について書いたもの」とは『賭博者』のことだろうか。読んだことがないから何とも言えない。だが、この台詞はもはやドストエフスキーから離れて簡潔にまとまっている。僕にとっては、おりにふれて思い出す名文だ。

 

そういえば村上春樹も走る習慣のある人だった。

個人的な印象だが、走ることは生活の潤滑剤のような側面がある。走っていると鬱滞していたよどみみたいなものが流れてくれる気がするのだ。走る習慣のある人は定期的に流れを正せる強い人、という印象がある。

 

僕の場合は残念ながら習慣にできていない。

性格的な問題からして一生できない気がする。三日坊主というよりは何事もやる気にならないとやれないのだ。フルマラソンのまとめを二ヶ月放っておいたのもそれだ。時が来たらめちゃくちゃやれるのだが、来ないのに無理してやったら自己嫌悪で死にたくなるのが常だ。だからハマるタイミングを待つしかなくて、それがちゃんと来るから妙にたちが悪い。思い立ったが吉日、思い立たなかったら仏滅。そういう人間なのだ。

 

 

ところで、今回も完走できたが今までと違った感慨を抱いている。というよりも、今までは感想など大して無かったのだ。

達成感や疲労などの心地良さはあったが、走っている間は何かを考える余裕も無く足を動かしながら時間が過ぎるのを待っているのが正直なところだ。今回はわりと早い段階で膝を痛めて後半はとぼとぼとしか走れなかったのだが、それがかえってエネルギー消費の律速段階のようになり、頭を働かせる余裕を生じたのかもしれない。

 

ともあれ、今回は頭が働いた。しかし、抱いた感想は人生に関する訓示のようなたいそうなものではない。そこまでの頭の余裕はない。

正月の箱根駅伝のイメージがあれば、走っている道の横には地元民が立って応援しているのが想像できるだろう。箱根駅伝ほどでないにしても、地方のマラソン大会にも地元民の応援は存在する。給水所の人に「あと15kmだよ」と言われ、コース沿いに住む人が庭先で「がんばれよっ」と声をかけられ、道ばたで立っている人とハイタッチした。一人に至っては計三カ所で見かけた。ランナーが走るのにあわせて車かなにかで移動したのだと思う。

見も知らぬ人からの応援でも不思議と頑張れるもので、身体がふっと軽くなるように感じるのだが、実はもっと根本的な疑問を抱いてしまったのだ。

なぜ彼らは応援しているのか?

 

ありがたいのは確かだが、彼らには応援する理由が無い。

まさか地元にお金を撒いてくれるランナーへの報恩ではあるまいが、理由がないことはありえない。

理由と言うと、語弊がありそうだ。動機と言った方がいいかもしれない。

「なんとなくしようと思った」だとか「普通することだからやった」というようなものだとしても無自覚的な動機があるはずだ。もし、本当に動機の無い行為があったとしても、少なくとも明確に動機を文章化できないことと動機が無いことを同一視するのは不適切だろう。

僕は、この場合の「なんとなく」とか「普通」と言われるものは何なのかということが気になった。念のため言っておけば、応援することのメリットとデメリットを比較して応援は行うに足る行為であると判断した、というような心の動きは想定していない。人間はそれほど合理的ではない。

 

応援が不思議に思えたのは、見返りを求めない行為にも見えるからだ。ランナーは応援してもらえても、恩返しをすることはできない。せいぜい声援に応えるくらいが関の山だ。この応酬は動機付けとしては不十分だろう。つまり、ランナーに返事をして欲しいから応援すると考えるのは不自然だということだ。彼らは寒空の下、数十分も数時間も立っている。ランナーの返事がそれだけのコストに見合う報酬とは言えない。

同様にコストが高過ぎることにおいて、挨拶の派系だという考えも却下される。挨拶はコミュニケーションの最小単位で、挨拶をしたもの同士の間で微小な絆を形成する。それが日々繰り返されることで強固な絆を形成することになるが、ランナーと地元民は一期一会なのだ。さらに、相手が何者なのかもわからないのであって、次会ってもその人とは分からないような関係なのだ。

 

随分と執拗な議論にしてしまったが、走ってるときにはこんなことを考えてはおらず、思いついたのは「頑張っているから」とか「大変そうだから」といったものであった。

だが、これもよく考えてみれば変、というより理由になっていない。「彼らが頑張っているから自分にとって○○なので応援したくなった」の○○について気になっているのだ。だが、「頑張っているから」というのは自分の(あくまで主観だが)直感に反していない以上、他人の苦労が応援の動機づけに関与している可能性が濃くなってきた。

 

しかし、他人の苦労を見て応援するのはどういうことか。ざっと考えて以下のようなことが考えられる。

  1. 「頑張る=素晴らしい」のような価値観があり、頑張っている人を応援することで価値観ならびに自己を守る。
  2. 応援することにより他人の苦労に荷担し、彼らの苦労が報われる(この場合、完走)ことにより、自分の存在価値の確認できる。
  3. 進化的に社会性を得る段階で他人の苦労を助長することで自分のコストを低く維持できる優位性があったため、他人の苦労を応援する機能が残った。

 

偏って見えるのは他から見てもそうなのだろうか。

基本的に人間は真に利他的にはなれないと考えているため、理由に自己防衛(一つ目)や自分への利があること(二つ目)を持ち出さないと納得できないのかもしれない。三つ目に関しては毛色が異なるが、人間の初期不良のせいにしている方向性なので、人間の利他性に期待していないことがむしろ浮き彫りになっている。

だが、自分の非社会的な思考を再確認することは本題ではない。

 

1の自己防衛について、この場合、応援とは自分と同じ価値観を持つ人間への仲間意識を形成することを目的としている。例に出した「頑張る=素晴らしい」の価値観はいかにも現代の日本人らしい価値観だろう。この場合、頑張る人を応援することで「頑張る=素晴らしい」の価値観を正しいと認識するに拍車をかけているように思えるのだ。

一般に、自分の価値観を省みることよりもそれが正しいと確認することの方が容易い。だから、頑張っている人間が褒めそやされている場に自分も積極的に参加していこうとしたがるのはありそうな話だ。

この派生形で、応援しないのが憚られるというのもあるだろう。頑張っている人がいるのに何もしないのが気まずい、というようなものだ。これは「頑張ってる=偉い」の価値観にのっとると自分が偉くないことになってしまうため生じる罪悪感だと考えられる。つまり、前段落の裏返しで価値観に縛られた受動的な参加と言えるだろう。

 

2について考えるうえで、逆に自分が誰かを応援するときのことを思い出す。

非常に個人的な話だが自分は女子バレーボールが好きで、引退してしまったが木村沙織のことは今でも大ファンだ。試合のときなどはテレビ越しでも声を出してしまうこともある。

しかし、点が入った後の興奮は自分の応援が届いた喜びだとは思えない。自分の献身に酔いしれる喜びとは実感に反する。

テレビ越しだったからかもしれないが、それにしてもあの路上の地元民が「私たちのおかげで完走できたんだ」などとは思うまい。せいぜい「ちょっとでも元気をわけてあげられた」くらいのもので、動機としては弱い気がする。

たしかに「こんなにみんなを応援してる自分、素敵!」というようなナルシスティックに酔う人はいそうな気がするが、それが大多数だとは思えない。

 

3については半分妄想の思いつきだ。

考えを詰めても面白いが、応援云々の話からは大幅に逸れていきそうな雰囲気があるため、時期が来たら考え直すことにする。時期が来るかは分からないが。

 

3の議論を割愛して先を急いだのは、少し気付いたことがあるからだ。手始めに、応援とは見返りを求めない無償の行為であるのではなくて、相手に損をさせない行為ではないかと思い始めた。

自分と相手の損得を考えた時、すごく単純に場合分けをして四パターンある。

  • 自分も相手も得する
  • 自分が得をし、相手が損をする
  • 自分が損をし、相手が得する
  • 自分も相手も損をする

無償の行為などと言えば自己犠牲的な印象を与える。上のリストでいう三つ目を思い浮かべてしまうということだ。実際には自分の損得など度外視した行為なので一つ目も含まれるはずだが、自分の損があるようなニュアンスがある。

というのは、僕がやらかした誤謬だ。応援が無償の行為と考えただけで自己犠牲のつもりでいたのだ。

そして、味方につけるだとか応援に酔うだとかいうのは、<私>の得になるのではなく<私たち>の得になる。

得というのも詳しくみると奇妙な言い回しで、具体的にはつながりの形成を意味する。一期一会の相手と絆を形成するのは動機として不十分と前に述べたが、つながること自体に喜ぶのだとすれば、応援する動機として成り立つのではないだろうか。

絆をたよりに何かするのではなく、絆そのものが報酬であるかのように、小さなグルーヴ感を生み出すのではないだろうか。

そう考えると、深く関わらなくていい相手と仲間意識だけ形成するのは得策にも思える。

 

淘汰圧を越える遺伝的優位性を述べるなら、むしろ人間が他の人間と関わること自体に快情動を感じる能力を想像した方がよかったかもしれない。

とはいえ、人間関係がストレスの原因とも言われるのも事実だ。けれど、人は一人で生きられないと言われるのも事実だ。

それは、単に食料の確保が難しい、というような原始的な限界を意味するに収まらない。心のつながりもより良い生存に必要なのだ。

僕が尊敬する神林長平氏の『ぼくらは都市を愛していた』はまさしく人間のつながりについて書いていたりする。彼は言語について深く考察する人だが、言語というのもコミュニケーションを目的としており、すなわち人と人とのつながりを形成することである。

言語を持つ生き物たる我々は、どうしようもなく社会的な動物なのだろう。


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