よみしろの読む城

好きな小説を好きなだけ褒めちぎります

悪の力  姜尚中

先日、読書に対する姿勢を変えているなどということを言いましたが、そのうちの一つが「テーマを決めてそれに関わる本を集中的に選んでいく」というものです。

 

現在のテーマは「悪」

ふとしたきっかけで悪意について考えることがあり、これ幸いとテーマに決めたわけです。

 

そして先日ふらっと立ち寄った本屋で『悪の力』(姜尚中)というドンピシャな本を見つけ、即購入。今日読み終わったのでさっそく最近の研究成果(?)を公表してみます。

 

 

目次

  1. 悪の特徴
  2. 悪と空虚
  3. 虚無感に対するには
  4. 語り残したこと(駄文)

 

悪の特徴

まず、悪と聞いてぱっと浮かぶのは殺人や強盗でしょうか。これらは犯人の自分勝手さを感じますね。

一方で、利己的ではなくても悪と思えることがありますね。例えば、貰ったプレゼントをくれた人の目の前でごみ箱に突っ込んだりしたら、それはもう最悪です。

 

こう考えていった結果、悪とは「どういう形であれ誰かに害をなすこと」であるというのが僕の感覚に近いようです。

あまり世間とのずれもないのではないでしょうか?

 

 

さてここで、対立概念である善というものを取り上げて悪を考えてみましょう。

善と悪は正反対ではありますが、世の中そうきれいさっぱりとは善と悪に分けられるものではありませんね。一人の人の中には悪的成分もあれば善的成分もあります。

 

僕がこれを痛感させられたのは『蠅の王』(ゴールディング)を読んだ時でした。漂流した少年が次第におどろおどろしい内面を表出していく様は圧巻でした。人の中には生まれたときにはもう悪が植え付けられていて、誰の心の中にも潜んでいるのだと突きつけられたようでした。

 

最近読んだところだと『隣の家の少女』(ジャック・ケッチャム)は文字通り最悪な印象を受けました。美少女に理不尽な罰を与え、虐待や拷問にエスカレートしていく話です。(実話が元ネタだと知ったときは唖然としました。)

 

誰かの悪口を言った後などに気持ちがすっきりしてしまうことの延長として、いじめとかがあるのかな、なんて考えさせられました。逆説的ですが悪事は必ずしも絶対的な悪ではないのですね。

 

 

悪と空虚

さてさて、悪についてちょっと整理したところで、本題に入っていきましょう。

 

まず気づいたことは、どうやら悪と虚無とは相性がいいらしいことです。

『悪意の手記』(中村文則)の主人公は大病を患い、生きるということの価値を徹底的に否定し貶めます。ところが病が治ってしまい、生きる価値が全く感じられなくなった世界に放り出された彼は、ひどい虚無感に襲われる中、殺人を犯します。

 

では、悪と虚無に一体何の関係があるというのか?

一言で言えば殺人を含む悪事には他の追随を許さない高揚感があり、それにより虚無感を埋めることができるのです。

『悪意の手記』の主人公は殺人を犯した後、虚無が終わったと言っています。

『ユリゴコロ』(沼田まほかる)で登場する殺人鬼は、殺人の経験を糧にして生きていくことができるようになったと描かれています。ちなみに、ユリゴコロとは殺人の際の感情の高ぶりを指す殺人鬼の造語です。(と、僕は解釈しています。)

 

人が思わぬ暴力性や破壊衝動を感じる時、心の空白感を埋めたいのだという解釈はある程度成り立つでしょう。卑近な例ではむしゃくしゃしてヤケ食い、なども破滅により欠落感を埋め合わせようとする行為ととれます。

 

 

自分のことなので恐縮ですが、僕は悪口を聞くのも言うのも嫌で、ちょっと潔癖なところがあります。他方でひどい虚無感に襲われることがあります。

ここまでだと、「ん?さっきまでと話が違うぞ」となりますが、僕は虚無感を埋められずにほとんど鬱のような状態まで落ち込みました。とてつもなくしんどかったです。すぐ治ったので助かりましたが。

 

やはりどこかで虚無感と折り合いをつけなくてはいけないようですね。

 

 

虚無感に対するには

では、その虚無感はどこから来るのか。『悪の力』には、虚無感を「自分と世界との断絶」ととらえている箇所があります。

断絶とはつまり「こんな世界に意味なんてない」という世界に対する憎しみであり、それは自己嫌悪が外の世界に向かって放たれたものでもあります。

 

虚無感が自己嫌悪の対外的な現れだというのを逆手に取ると、自分を好きになればその自己肯定感が外に向けられ他人のことも好きになれて満たされるはず、ということになります。

安直な考えのようですが、実は、同じことが『愛するということ』(エーリッヒ・フロム)で述べられています。こっちは(当然ながら)僕よりもっとしっかりしたロジックで述べられており、一読の価値ありです。

 

『悪の力』では夏目漱石の『それから』を引き合いに出し、自身の周囲の人間との関わり合いから他者とのつながりを回復し、空虚を満たしていくことを一つの結論としています。フロムと一緒ですね。

何で述べていたのかは思い出せませんが、宮台真司も人との関わり(特に自作の用語でいう「内発性」)に希望を見出しています。

 

人とのつながりや共感などの身体的な感覚こそが、虚無感への対抗策であり、ひいては悪のはびこる培地を取っ払えると、そういうことでしょうか。

今のところの僕が行き着いたのはこんなところまでです。

 

 

まぁ一言で言うならば「愛は偉大」ということですね。

 

 

語り残したこと(駄文)

『悪の力』で、なるほどと思ったのは資本主義の動力源が欲望であり、構造的に悪を生み出す仕組みがそこにあるということです。例えばブラック企業といった時に、その悪は社長さんとか上司の誰それとかのような個人のせいなのではなく、会社を成り立たせているシステムそのものに起因しているのだと。

概念にまで悪の存在を見つけたのは僕を唸らせるものでした。

 

なんとなく、しっくり来ないのは不快感と憎悪が見落とされてるからでしょうか。ありていに言えば、うざい人にキツイこと言ってギャフンと言わせてやりたいのような。

そういう不届きさというか腹黒さというかは悪意を秘めているか、少なくとも関わりはあると思うのですが、よくわかりません。

 

 

書き終わったものを改めて見てみると、なんだか稚拙な文章になってしまいました。

目の行き届いていないものも多いし自分よがりだし。まぁでも今後自分の考えが変わっていってから見返して、あぁまだまだだなって思えてるように未来の自分に期待しておきます。

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