思惟漏刻

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『真実の終わり』ミチコ・カクタニ

昨今のコロナウイルス騒ぎの混乱は世界規模に拡大している。

日経平均やダウ平均は急降下し、ニューヨーク株式市場は石油危機以来初となる取引の一時中止措置をとった。各種イベントに対して自粛要請が出され、多くのイベント関係者に大損を抱えさせている。学校の臨時休校や仕事のテレワーク化などが重なり日常生活にも余波が広がっている。
以上のことは今更、確認するまでもないかもしれない。店頭からマスクやトイレットペーパーが消えるなど、日々の生活の中で何かしらの異常を実感していることと思う。

   

しかし、一体、何がここまでの混乱を引き起こしているのだろうか。
たしかに、一つの病気が短時間で世界的に広がっている様は目をみはるものではあるが、それほど致死率が高いわけでもなく、健康体であれば自然に治癒する、言うなればただの風邪であることも既に広く知られている。肺炎と言っても特別恐ろしい作用によるのではなく、通常の風邪の延長でなる普通の症状であることも、以前よりずっと広く認知されている。

 

したがって、これも多くの人が感じていることだと思うのだが、この騒ぎの異常性は突然変異したウイルスの脅威ではなく、人間の対応の側によるところが大きい。

実際、個人的な観測範囲ではあるが、死者感染者数の増加に怯える声はほとんど聞かず、代わりに政府やWHOの対応を糾弾する声に溢れている。また、転売で生計を立てる者の存在やマスコミの扇情的で偏った報道を暴く動きも活発化している。

やや大げさだが、社会システムの不健全さが露呈していると言っても良いのではないだろうか。いわば、社会のボロが出ているのである。

 あるものの真の働きを知りたければ、それが崩れゆくときに観察するのがよい。

ウィリアム・ギブスン『Zero History

だとするならば、現在は世の中の構造を観察しやすい時期にあると言えるだろう。
世界の中の事象が本質的にどのようなものであるのか、という探求はまさに科学研究の営みそのものだが、過去の優れた研究があらかじめ描きとっていた社会構造を再び取り上げ、答え合わせをし次に繋げることが、研究と実践のどちらにおいても重要となるように思う。

 

今、「ように思う」と付け足したこの曖昧さ。「かもしれない」と言いたくなるこの不確実さ。あらゆるものを曖昧で不確実であるとするこの態度が、絶対的な事実への不信感を募らせ、科学研究や客観的事実に依拠することを妨げてきたのである。

こうした現状が『真実の終わり』に克明に描かれている。 


本書では、客観的な事実が重要性を失い、それどころかその存在すら否定されつつあることが指摘される。本当のことなど分からない、あらゆるものが相対的で多様な意味を持ちうるのだから、普遍的なものなど求める方が無駄である、というような態度がまかり通る社会では、恣意的な情報により容易に現実が書き換えられてしまうのだ。ナチスドイツ時代の反ユダヤ思想の熱狂は無知が生み出しただけの、単なる過去の出来事などではなく、現代にもなおリアルに受け取られるべきものである。

 

コロナ騒ぎの中で本書のことを思い出したのは、昨日伝えられた情報が明日には誤りだと広められるというような、正しさや常識が次々に移り変わっていく様子を見ていたときであった。
例えば、マスク一つとってみても目まぐるしい変化を遂げている。
他の人たちの考えや常識がどのような変遷を辿ったのか分かりようがないため、以下では筆者の個人的な理解が移り変わっていった様子を記してみる。

 

新型コロナが日本に侵入した当初はマスクなどの着用により各自が感染予防を心がけるのが「正しい」振る舞いであった。森喜朗元首相が自分はマスクなしで五輪まで乗り切ると明言したのは純然たる愚行に思われた。しかし、新型コロナが空気感染せず飛沫感染のみであると周知され、WHOがマスクは予防に効果がないと宣言した頃から、マスクをする必要性が薄れていった。また、病院関係者や易感染性の患者にこそ行き渡るべきもので、持っているマスクの着用はさておき新たにマスクを購入することが「間違い」であると認識を改めた。
ここにおいて、転売ヤーに対する怒りは市場原理を歪めている罪のみならず、必要な所にマスクを行き渡らせるのを妨げていることに対しても向かうようになった。マスクに関して、転売ヤーのみが悪役だったのだが、マスクの着用方法が雑(密閉していない、使いまわしている、口の下にずらして顎の付着物をマスク内に移すetc)であることが指摘されて以来、転売ヤー以外にも防疫的にはなおも重要であるマスクの無駄遣いを認めるようになり、彼らにもわずかな苛立ちを感じるようになった。

 

要するに、ここ1ヶ月ほどの間でマスクの価値や意義といったものが自分の中で二転三転していった。そうした揺さぶりの中で正しいとされる情報がかなり脆弱なものであるように感じた。

 

しかし、これは本当に「正しさ」が脆弱であるということなのだろうか。「正しさ」など相対的なものだから、どのような振る舞いであっても正しくなり得るなどと言っていいのだろうか。もちろん、そんなことはない。
上記のような「正しさ」の変動は「真実」がより明らかになっていく中で、とるべき態度が変わっていったと見るべきだろう。正しいとされてきた情報が変わっていったとしても、客観的な真実など存在しないとまで主張するのはかなりの飛躍がある。

 

だけれども、これまで多くの事例で客観的な真実の存在が疑われ、真実の探求の重要性が貶められてきた。『真実の終わり』では客観性が蔑ろにされ、主観的な印象が優先されてきたことを具体的な事例を挙げて分析している。

下手に切り取って伝えるよりは、実際に読んだ方が面白いし実りがあると思うが、そう言って済ますのも味気ないので、いくつか抜き出しておく。

虚言癖のある大統領の就任、99.9%で証拠のある気候変動に異を唱える論者との「公平な」話し合い、陰謀論、不安を煽るマスコミ、自分だけの世界を作れるSNS、などなど。

 

内容に突っ込まない代わりに、と言うのも変だが、別の角度から紹介してみる。
著者が文学研究をバックグラウンドにしている人であるため、聞き馴染みの小説や映画などがよく引き合いに出される。『一九八四年』、ボルヘスの短編、『ゼロ・ダーク・サーティー』など。逆に聞いたこともなかったドキュメンタリーが取り上げられることもあり、一読書家として心踊るものである。
ちなみに、上で引用したギブスンは本書の第七章の扉で使われている。

 

タイトルはもちろんフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』からとったものだ。『歴史の終わり』は全世界が民主主義を受け入れ、政治体制が統一されるために歴史が終わるという内容なのだが、実際のところフクヤマの読みは外れている。そのことは本人も認めているのだが、もしかすると、『真実の終わり』というネーミングは実際には真実が終わらない、つまり客観的な事実を理性的に見つめる重要性が失われることはない、という祈りめいた思いを込めているのかもしれない。
新型コロナの騒動においても、マスコミはトイレットペーパーが店頭から消えている映像ばかりを流すが、それを批判するツイートが伸びているし、ワイドショーの流した情報が誤りであることを政府機関が名指しで指摘しているし、数々の偏向報道で不利益を被った企業が反論する公式見解を出している。
こうした流れを見ていると、マスコミの一方的な情報発信に踊らされることなく、個人的な感覚を切り離して客観的事実に向き合うようになっていく変化の途上にあるようにも見えてくる。


ところで、本書によれば真実を脅かしている時代の潮流を最も象徴するのがトランプ政権の誕生だという。彼は先日、インフルエンザよりはるかに少ない死者しか出していないコロナに何をそこまで怯えているのか、といった主旨のツイートをしている。コロナ騒ぎが扇情的で偏った報道によって情報に振り回される帰結であるとするならば、彼の批判対象は自身が使ってきた手法でもあるということになる。なんとも皮肉なものだ。

 

最後に『真実の終わり』から、熱意の非対称性について語る部分を引用したい。正確には「ウェブ上の陰謀論を研究するレネー・ディレスタ」の研究なのだが、

ディレスタによれば、明白な事実を強調する投稿を書くのに何時間も費やす人が少ない一方で、「熱狂的な陰謀論者や過激派は『羊のような大衆を目覚めさせる』ための献身の一環として膨大な量のコンテンツを生み出す」のだ。(p.72)

「明白な事実」を示すことは叶わないが、少なくとも過激ではない立場の人間の言説を一つ付け加えるくらいのことはしてもいいかもしれないという思いが、この短い記事を書いた動機の一つである。妙なことを言っていないだろうかという不安はつきまとうが、このような誰かに読まれている意識につきまとう不安はいつまでも持っていたいと思う。

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