思惟漏刻

本のおすすめと思考とっちらかしサイバーデブリ

もしもし(ニコルソン・ベイカー)

ハルキストに朗報だ。

村上春樹っぽい雰囲気の村上春樹のではない小説を発掘した。

それが、これ。ニコルソン・ベイカーの『もしもし』

 

村上春樹と言えば特有の文体で、不思議にも極端に評価が分かれる。

最近は「〜〜かもしれないし、そうじゃないかもしれない」のような末尾だけを転用して村上春樹っぽい文体でウケを狙っているものがあって、個人的には全然おもしろくないのだが、その末尾に村上春樹っぽさを感じないからというのが理由の一つだと思う。

個人的には火事を見ながらキスをするみたいなシチュエーションや、そこに相まった文体が醸し出す雰囲気が好きなのだけど、あらゆる文脈をそぎ落として部分のみを摘出した文体を村上春樹の全てであるかのように述べるのは分かってなさの裏返しに思えてとても不服だ。

 

村上春樹を揶揄する向きは今に始まったことではなく、ファンがハルキストなどと呼ばれたりする頃にはすでにあった傾向だと思う。なんとか主義などの言い回しもそうだが、ハルキストという言葉がまかり通っているのはむしろ村上春樹が嫌いな人が十分多くいることを示しているのかな、などと考えている。その分、ファンも多いということだろうから有名税みたいなものだろうか。

かく言う自分も中三の頃には自殺とセックスしかしないつまらん小説としか思えなかった『ノルウェイの森』が、今や最も読み返した小説となった転身ぶりだ。中三の頃に読んでから実は多大な影響を受けていたのだなぁとしみじみ思い返すのだが、ところが今度はもうそろそろ『ノルウェイの森』から抜け出したいとやや煩わしくも思ったりしている。結局、面白いのは面白いままなのだけど。

一人の人間のうちでさえこの有様なのだから世間で評判が分かれるのも、さもありなん。

 

もう少し、回り道を続ける。

昔に見かけた読書を推進する文句がある。

自分の感情を言い表す言葉を持たない人間は、苛立ちや不満をすべて幼稚な攻撃性に落とし込んでしまう。読書は心を表現する言葉を学べるから大人になれるのだ、とかなんとか。

当時はふむふむなるほどと思ったものだが、最近ふと疑問を抱いた。まさしく村上春樹の小説を思い浮かべてのことだ。

 

主人公は(主にセンチメンタルな方向で)様々な心情を示す。けれど、その表現の仕方は悲しいとか暗い気持ちとかの直接的な形容ではない。具体的には、手順を踏んでアイロンがけをしてみたり、つぶれる前の本屋で車輪の下を読んでみたりする。

 

こんなのを読んで心情表現の言葉を学べるというのは幾分、無理がなかろうか。

街中でかわいい女の子を見かけて「春の熊みたい」とはまさか思わないだろう。

 

だから、心情表現の言葉を学ぶというのの意を汲むと、心情を多角多面的に見ることで様々な心情の有様を知ることができて自分の感情を把握する助けになるかもしれない。あるいはすごく後ろ向きな考えだが、端的に悲しい嬉しいなどと言ってしまっては取りこぼしてしまうと自覚することまでしかできないのかもしれない。

どちらにせよ洗練された心理描写に触れておくことは、人間理解に何がしかの変更を余儀なくさせるだろうし、そうした経験は積んでおく分には損はないと思う。

 

とはいえ、そんな難しいことを考えるまでもなく面白いから読めば良い。個人的には村上春樹の一番のおもしろさは比喩にあると思っている。比喩こそ心情をいろんな面から見られる力があるし、創造的で楽しい。創造的であり想像力が働く。

ハルキストたちも端的に面白いから読んでいるのだろう。僕自身はハルキストと名乗れるほど入れ込んでいるわけではないにしても、村上春樹はかなり好きだ。そしておそらくハルキストと共有できる悩みを抱えている。

村上春樹成分を補充するのに村上春樹以外から補給できないのだ。

 

僕などは村上春樹が影響を受けたと言う作家の小説を読んでみたりしたのだが、求めていたものとは違うという感想が先に来てしまった。

チャンドラーもかっこいいしカポーティも味がある。

でも、カレーの舌になっているときには銀座の寿司よりもハウスバーモントカレーの方が食べたくなったりするものだ。

そういう飢えが常態しているのがハルキストとするならば、彼の小説の主人公が満たされなさに苦しんでいるのとパラレルにも思え、ちょっとした宿命めいたものを感じる。

 

 

余計なことを長く喋った。

ニコルソン・ベイカーの『もしもし』を読んだ後の感じがあまりに村上春樹っぽかったからだ。
とはいえ、何が似ているのかと言われると回りくどく直接的でない性描写くらいにも思える。他との類似点でこの本を語るのはあまりふさわしくない。はっきりとした特徴があるからだ。

 

この本、タイトル回収にもほどがあるのだが、最初から最後まで電話をしている。
しょっちゅう電話をかけたり受け取ったりとかではなく、ずっと一本の電話が行われている。しかも、セックステレフォンという性的関係を持つ人同士を引き合わせるマッチングサービスで知り合った初対面(というか対面もしていない)の男女がである。なんてこった。

通話料金とか大丈夫かな、と不安にもなるのだけれど、不安になった頃合いに女の方が電話番号を教えるからかけ直しなさいよと提案してくれる。でも男の方はここで切ってしまったら、今は絶対にそんなことにはならないと思っていてもふと冷めてしまうかもしれないからと断固として切ろうとしない。雰囲気を保つことに驚くほど神経を割いている。
似てるから好きというのは失礼な感想だから言いにくいのだけど、どうしてもこういうところに村上春樹っぽさを感じてしまう。

 

この本にネタバレは無いと思う。雰囲気のいいジャズをずっと聴き流しているような感覚で読書を進められて、次に何が来るかなんてことは知っていても知らなくてもこの瞬間の心地よさにはなんら影響がないのだ。
もちろんその中にも特に好きなフレーズがあったりするわけで、好きな曲の好きな箇所を取り出して流しても、聴いた人はその曲の価値が損なわれたとは思わないだろう。
だから、あえて自分の気に入った文章でそれでいて雰囲気をつかめそうなのを取り出して締めにしたい。 

「そう。それにわたし、長距離電話で話していて、会話がとぎれたときの、あのカセットのノイズみたいな音が好きなの。かと言って、知ってる誰かに電話する気分でもなかった。まあ、だいたいそんなわけでここに電話したのよ。さ、これで質問に答えたから、今度はあなたが何か話してくれなきゃ」 

「本当の話と、想像の話と、どっちが聞きたい?」

「最初に本当の話で、それから想像のがいいわ」

「十六歳くらいのとき」と彼は話し始めた。

(p27-28)

 続く話がとても面白いのだが、それは読んだときのお楽しみに。

 


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