思惟漏刻

本のおすすめと思考とっちらかしサイバーデブリ

「してあげる」ベースから「させていただく」ベースの関係へ

長文なのであらかじめ話の内容をざっくり述べておく。

  • 友人や恋人などとの仲がこじれることはままあることだが、ある種の問題については「〜してあげたのに」と無意識に見返りを求める態度が不仲の原因である。
  • 代わりに「〜させていただく」という態度を取ることによって、「〜してあげる」という態度に起因していた問題はいくらか解消できるだろう。
  • とはいえ「〜させていただく」関係でも改善の余地は残っている。尊敬によってつながることになるのだが、尊敬自体、難しい概念だからだ。
  • 「〜させていただく」以外の関係も見いだせるのではないかと期待している。尊敬の代わりに尊重と愛でつながる関係はできないだろうかと模索しており、いまだ解決を見ない。

大雑把にはこのような内容だ。だいたい想像がついたなと思われた方はこれで十分かと思う。執拗に細かくした面と曖昧に誤魔化した面とがある拙文だが、お付き合いいただけたらと思う。
問題を残して終えているため、コメントもあれば幸いだ。

 

   

 はじめに

嫌な奴と関わると不快な思いをし、いい友人に恵まれて日々に彩りが出る。たいていの苦悩は人間関係に由来しながらも、たいていの幸福もまた人間関係に由来する。人間とはかくも矛盾に満ちた存在である。

人の幸福の多寡はどのような人と付き合うかに大きく左右される。本文で目指すのはどのようにして幸せな人間関係を築けるかを究極の目的に見据えつつ以下の二点に焦点を絞る。

「どのような態度では深い関係は望めないか」

「どのような態度で人と付き合うべきか」

当然、取りこぼしは多い。例えば付き合うべきではないが付き合わなくてはならない相手との関係は扱わない。本当は避けるべき相手だが、そうもいかない相手というのがいる。具体的には言いがかりをつけてくる会社の上司、自己中心的でバカな同期などである。

これら避け得ない事態があるのは承知しているが、ここでは扱わない。うまく解決策を提示できる気がせず、本題から逸れるのみになるからである。きょうびそういったことついての文章は多く書かれていることと思う。詳しくないが、アンガーマネジメントであるとか怒りを自分の感情と思わないようにするだとか、対処法を詳しく述べた文章があるはずだ。そちらを検索して探していただきたい。

 

本文の第一節では「どのような態度では深い関係は望めないか」について書く。この人となら幸せになれると期待したにも関わらず、なぜかうまくいかないように見える事例がある。そこにはある「不幸な行き違い」が存在しており、その不幸な構造は意外なほど適用例が多いように見える。 結論を先取りすれば「してあげる」ベースと私が名付けた行為がすれ違いの原因であり、「こんなにも〜してあげたのに」と言ってしまいたくなるような日頃の行いが破局をはらんでいると考えている。

ではどうすべきかという問いに対して第二節で「させていただく」ベースの行為へと移行することを提案する。幸福をもたらしうる関係を大切にするために不幸な行き違いを予防する試みである。

とはいえ、「させていただく」ベースであってもいくつか重大な欠陥を抱えている。そのため、最後に「させていただく」ベースの問題とその解決として現状で考えていることを述べる。

 

 

第一節  「してあげる」ベースの行為

本節では「してあげる」ベースの人間関係を解説する。 「してあげる」ベースとはその名の通り、行為者が相手に対して「〜してあげる」という気持ちで行為することである。

典型的には男女間の別れ話によくある「あんなによくしてやったのに」というセリフを思い浮かべれば良い。「誕生日に高いネックレスを買ってやったのに」「友達との時間を犠牲にして恋人との時間を優先してあげたのに」「一生懸命デートプランを考えてやったのに」といったことだ。あるいはまた、母親が息子の部屋を片付けてあげて息子にキレられるといったことも含まれる。 主婦が食事のメニューを考えが大変で、夫に意見を聞いたら「なんでもいいよ」と返事が来て苛立つ、という話はよく聞く。もしも夫が「自分のわがままを通すのは悪いから譲ってあげた」つもりだとしたら、深刻な亀裂が生じ始めているのはお分かりだろう。

これらの「してあげる」ベースの行為をすべてお節介とまとめることはできない。表面的にはウィンウィンの関係にあるように見えていても、根本で「してあげる」ベースで行為している場合、将来にひびく亀裂が生じている。誕生日にネックレスを買って喜ばせることをお節介と言うのは難しい。それが自己犠牲的に行われていることが問題になるのだが、このことは後に詳述する。ともかく、「〜してあげる」という動機のもとでなされた行為を対象として避けるべきだと批判している。

事例をいくつか紹介したが、一人が一方的に「してあげる」ベースに行為していることもあれば、相互に「してあげる」ベースで接している場合もある。お分かりかもしれないが後者は地獄だ。しかし、意外なほどよく見かける地獄である。

 

「〜してあげる」ということは、つまるところ相手のためにしているのではない。相手のためにしたことに対する見返りを求めているのだ。どんなに人格者でも、利己的な人間本性からは逃れられないもので、相手から一切何も得られない状態が続けば不満はたまる。初めは親切にしてくれてた人でもそれを当たり前のように思われると怒る、というような話も人間が根源的には利己的な生物であることの証だ。

どんな人格者でも利己的である、という言い分には反感を覚えるかもしれない。実を言うと、利己的本性から離れられる人間があり得ないとまでは思っていない。無我の境地というのがどういうものか詳しくないのだが、それが自利にこだわらないということのようであるから、もしかしたら利己的な本性を乗り越えることができるのかもしれない。そういう期待は捨てていないが、極めて難しいものであることには違いなく、目の前の人間にそれを望むのは理不尽だろう。実際、「愛してるって言うなら不完全な私をそのまま受け入れてよ!」というのは大したわがままだろう。

 

人間が完全に利他的精神で、すなわち自分の利害を度外視して何かを為すことは不可能であると前提するならば、目の前の人が何かをしてくれることをどうせ自分のためにしているのだ、こんなものは偽善に過ぎないと見下すべきだろうか? もちろんそんなことはない。そんなことはないが、相手が利己的であるにしてもこちらの利になっているのなら「ありがとう」とお礼を言うことで見返りをもたらすべきだ、というような小学校の道徳的な回答も問題を含んでいる。関係がこじれる場合があるのだ。

例えば、親切が行き過ぎてまさしくお節介になっている場合はこちらの害になっているから素直に礼は言いにくい。あるいは相手が承認欲求お化けのようなもっと厄介な場合もある。これらのケースが危険になるのは、相手以上にお礼を言う自分の側にも原因がある。すなわち、どの場を丸く収めるためにこちらが感謝「してあげる」ことになる。先に地獄と述べた構図である。お互いに相手のためと称して自己犠牲的に、「してあげる」ベースの行為をしている。

少し変な例を示す。友人Aがなぜかあなたにあんぱんをくれた。「美味しいから食べて」と言われ、あなたは別に好きでも嫌いでもないあんぱんを食べて「ありがとう」と言う。お世辞で「本当だ、美味しいね」とさえ言うかもしれない。後日、友人Aは再びあんぱんをくれる。あなたは「悪いからいいよ」と断っても友人Aは「おごりだから」と頑なである。あなたは嫌いというわけでもないので仕方なく食べて、とりあえず礼を言う。翌日以降も友人Aはあんぱんを渡し続ける。ある日、あなたは友人Aが困っている場面を見かける。あなたはいい加減話しかけられるのに疲れていて助けないかもしれない。あるいは、日頃のお礼にしぶしぶ手助けをするかもしれない。しぶしぶと言うのを卑屈に言い換えれば、あんぱんさえもらっていなければ無視しても良かった、助ける義理なんか無かったとも言える。なにせあなたは別にあんぱんをもらってもたいして嬉しくないのだ。 あなたと友人Aとの関係は良好と言えるだろうか? たしかに、あなたはどちらかと言えば利となる行為をしてもらっていて、それに対してお礼を述べている。だが、決して良好な関係とは言えまい。

さらには、友人Aを助けたとしても友人Aが不満を抱くことは十分ありえる。なにせ友人Aは毎日あなたにあんぱんを貢いだのだ。出費は小さくない。それに対して、あなたは生半可にしか助けてくれなかった。もし、友人Aが不満をぶちまけ「あんなにあんぱんを買ってあげたのに」と怒り出したとしたら、あなたも怒り返すだろう。「私はそんなもの頼んでない。私こそがあなたの相手をしてやっていたのだ」と。

以上が感謝が必ずしも善行とはならないことを示す例である。 あんぱんをくれる友人Aは変な例ではあるが、もしあなたが本当にあんぱんが好きで、友人Aではなく近所のおばちゃんがあなたが美味しそうにあんぱんを食べる姿を見るのが好きであんぱんをあげているのであれば、随分と仲のいい二人に様変わりする。結論を先取りすると、これが「させていただく」ベースの関係である。

してもらったことを素直に喜べるのであれば良いが、私のような卑小な人間は嬉しくもないお節介をされても喜べない。私ほどではないにしても、人は多かれ少なかれそのような偏屈さを持っていると思う。素直に喜べるのならばよほど心の広い人だ。鷹富士茄子か。さぞ生きるのが上手いのだろう。どうかそのままでいてほしい。

だが、人間ができていない我々は、与えられたものを喜べてお礼を伝えられるようになることを目指しつつも、そこに固執してはならない。してもらったらありがとうを伝えるようにすれば万事OKなどという甘えた道徳観念にひっかかってはならない。

 

「させていただく」ベースの関係の話に移る前に「してあげる」ベースの関係の危険性についてもう少しだけ分析をいれておく。

「してあげる」ベースとは、自己犠牲的でありながら最終的には自分の利益を目指している動機に基づいていること、というだけではない。利己的な動機に基づいていることに無自覚であるどころか利他的な行為をしていると思い込むようなことを言う。

完全に自利を度外視して行為することは不可能であると(一旦)みなしたように、利己的な動機に基づいていること自体はさして問題ではないのだ。利他的だと勘違いをしているのが問題で、そうした自覚があれば反省して直すことができる。どのように直すかは次節の話である。

「してあげる」ベースという時、自分が「してあげる」ベースである場合と相手がそうである場合とがある。直せるのは自分のことだけだ。相手が「してあげる」ベースである場合は程々の関係にしかならないだろうと推測し、大して期待しないことを推奨する。本文冒頭で述べたようにこの文章においては、幸せになれるはずなのに不幸にも行き違うような関係を改善することを目的としており、幸せになれるはずのない関係・苦痛をもたらすばかりの関係はなるべく避けることを勧める。避けるか否かの判断条件として「してあげる」ベースというものを提示している。承認欲求おばけと付き合うのをやめて、良識ある人と付き合うべきという、至極当たり前のことを述べている。

 

ところで、この「してあげる」ベースという無自覚な動機が危険なのは、貸し借りの概念を導入すれば納得しやすいのではないかと考えている。

「してあげる」ベースのとき、相手に貸しを与えているのだ。いつか返済されるはずの借金を相手に貸し付けている。先の例で言えば、これだけ毎日あんぱんをあげているのだから困った時に助けてくれるだろう、といった無意識的な態度である。ところが相手に借りと思っているとは限らない。それどころか相手も「してあげる」ベースである場合は真逆である。再び先の例で言えば、私の方があなたの相手をしてやっていたのだ、という態度である。お互いに貸しを与えているつもりであるならば、不満の爆発はいずれ生じる。借金を取り立てに行ったら借金してるのはお前の方だと言われるようなものだ。

もし、相手が借りを感じていなかったとしてもなお危険はある。人は常に自分に都合よく考えたがる生き物なのだ。相手が感じるよりも多く貸しを見積もり、少なく借りを見積もる。金銭の貸し借りであれば金という客観的な指標があるが、個人の感情ともなればすれ違わない方が難しい。貸し借りの感情を持ち込んだ途端、関係は不満を抱えこみやすく脆弱なものとなる。 先のあんぱんを与え続ける話を貸し借りの概念を用いて整理すれば、友人Aは一方的に貸し付けをしている迷惑な人間であり、あなたはあんぱんをもらってはいるものの、受け取って「あげる」という形で貸し付けている。

 

 

第二節  「させていただく」ベースの行為

「してあげる」ベースの話で問題だったのは動機が根本的に利己的であることではなく、利己的であることに無自覚で、さらには利他的であるかのように誤解している点にあった。完全に利他的であることを望むのは現実的でなく、相手にそれを要求するのは理不尽でさえある。利他的な人間になること、また、与えられたものを(それが何であっても)喜べるような人格者になることを一旦置いておいて、なおも良好な関係を築くために考えたのが「させていただく」ベースの関係だ。

相手のためにしていたつもりで自分の利益を求めていることが事態を複雑にしているのならば、いっそ自分の利益を求めつつ相手の迷惑にならないように、あわよくば相手の利益にも適うように行為することを目指した。

 

「させていただく」ベースとは、端的に言えば敬意を抱いた相手に謙虚に関わることを言う。この時、自らの意思でありがたいと思うよりも、ありがたいと思わされる経験を尊重する。貸し借りの概念で言えば、相手に借りを作るか、そもそも貸し借りが発生しない状況をイメージしている。借りを返すとは恩返しのことであるが、互いに相手に借りがあると思っているのであれば、互いに恩返しし合うこととなり感謝の念がインフレする。そこまで理屈どおりにならなくとも、「させていただく」ベースという可能性が視野にあることで、関係がこじれるのを予防できると考えている。

男女間の確執で言えば、「あんなによくしてあげたのに」と将来的に言ってしまわないように、一緒にいてくれる(いさせていただく)ことを理想として掲げている。必然、かなり相手を選ぶこととなる。一緒にいたいと思える相手であることが必要条件となるからだ。誰とでも夫婦になれるわけではないのと同じだ。

 

このように、「させていただく」ベースの関係にはいくつか条件が存在する。

  1. 謙虚であること(敬意を抱く余地を作る)
  2. 会話をすること(敬意が生じる機会を作る)
  3. 相手が尊敬に値すること
  4. 自分が尊敬されるに値すること
  5. 行為自体が目的となること

 

1謙虚 2会話

プライドの高い人間、自分が偉いと思い続けたい人間は相手を見下すことしかできない。「してあげる」ベースの行為しかできない。プライドに縛られず、相手のことを尊敬できる準備が整っていたとしても、敬意が発生するには相手と関係しなくてはならない。相手がクズであるかもしれないし、立派な人でもそれを感じることができない限り敬意は生まれようがない。したがって会話が必要となるのだが、あなたはこういう人ですかと直接聞いても仕方ない。本人が語る自分像が全てであるとは限らず、敬意とは抱く側の主観である以上、自分が感じ取る必要がある。そのためにこそ会話が必要となる。

 

3尊敬に値する相手 4尊敬されるに値する自分

先に触れたように、誰に対しても「させていただく」ベースで行為することはできない。相手がクズであれば、その人との交流から幸福を得ようとするのは難しい。全人類を愛そうとしてはならない。まっとうな人間と付き合わないと自分の身が先に滅びる。

ではどのような人間が付き合うべきまっとうな人間かという話だが、その境界として「してあげる」ベースで行為してるか否かという判定基準を提案している。 ただし、「してあげる」ベースの行為を完全に排除することは難しく、厳密な意味では誰もがアウトになりかねない。たまには見返りを求めて行為することくらい許してあげたい。また、「してあげる」ベース以外の行為という消極的な指定の仕方ではイメージがつかみにくいため、相手に積極的に求めるべき性質の一例として「尊敬に値する」という性質を提示した。尊敬に値する人と付き合うには自分がダメな人間だと気後れしてしまうので、少なくとも自分の中で努力している感触がある必要があると考えた。なお、このあたりの議論については尊敬である必要がなく、むしろ尊敬に主眼を置くのは誤りであるとも考えられる。提示しておいてなんだが議論する必要があるので、一旦は尊敬し合う関係を理想の一つと理解していただくとして、のちに詳しく述べ直す。

 

5行為自体が目的となること

行為自体が目的となっているというのは、別の目的のためにその行為を手段として用いるという事態と対置している。例えば、買い物を完遂するためにコンビニの店員に商品を手渡すとき、手段として人と関わっている。逆に、目の前の友達と話したいがためにその人と話すとき、行為自体が目的となっている。

カントの人格を単に手段としてでなく常に目的として扱えという定立が念頭にある。 褒められたいからではなくその人と話したいから話す。お礼を言われたいからでも好かれたいからでもなくその人の喜ぶ姿を見たいから物をあげる。これこそが「してあげる」ベースから「させていただく」ベースへの変換である。

自分の欲求を満たしたいことには変わりないが、相手を利用したいという動機が薄まっていることはわかるだろう。変換後の行為が利他的行為であるとは限らない。相手にとって嬉しいことではないかもしれない可能性は大いにある。それどころか不快感を与える可能性すらある。だからこそ「させていただく」と呼んでいる。相手の利になるか否かは本人にしか分からないが、かと言って理解しようとする努力は諦めるべきではない。理解し得ない二人が、にも関わらず共にいることが幸福への道筋なのだ。

 

あらためてこのあたりを整理する。

自分ができることは「おそらく相手の利になるであろう行為」までである。つまりそもそも純粋な利他的行為は不可能であったこととなる。したがって、相手のために自己犠牲的に行動することは不合理だと言える。であるならば自分の利益を確保することを一番におきつつ、相手の利益を見越すということが最も理にかなった行為と言えるだろう。これは自己中心的な行為とは区別される。相手の事情を考慮しているからだ。

 

尊敬と感謝

「させていただく」ベースの関係とは尊敬と感謝でつながっている。敬意があるからこそ相手を配慮する。敬意というよりも畏れであるかもしれない。また、感謝とは自分の利を求めることに相手を巻き込んでしまったが付き合っていただいた、という背景から感謝せざるを得なくなる。

尊敬というのもまた難しい。相手を高く評価するということは自分を低く評価することも含むからだ。自分を貶める側面があり、遠回しに自己犠牲的でもある。奴隷道徳へ堕落しそうな側面は否めない。

これはかなり痛いところである。自分で自分を貶めているのなら、自利を得たところで前提として自分の幸福が妨げられているとも言えるからだ。これでは、人間関係から生じる不幸を避けるために別の自虐的な不幸を前提とすることになりかねない。

 

自分を貶めることなく他人を尊敬することで解消する方向が一つあるが、正直よくわからないから今は保留しておく。そうではなくて、理想的な関係を一つに絞らず多様なあり方をすると考えて許容する、ということにより尊敬に頼らずに良好な関係性を築く方針を進める。

理想の関係を複数種類用意することを許すならば、尊敬し合う関係とは友人関係で理想とすべきものなのかもしれない。尊敬の厄介な点は、かつて尊敬していた人を尊敬することができなくなる可能性が十分にある点だ。尊敬には理由が必要で、自分がそこに追いつくなどの原因で尊敬していた理由がなくなれば、尊敬の念は消失する。自分の成長を促してくれたことへの感謝に転化するかもしれないが、持続可能性は低い。その分、動的平衡というか切磋琢磨的な関係へと発展することになりそうだ。相手を尊敬し、それに自分も応える。そのことにさらに相手も応えるだろうという信頼があると、ともに頑張ることはできる。だからこそ良きライバル的な関係にふさわしく、逆に安らぎや自己実現以外の幸福を得るような夫婦的関係とは別種のものとなるだろう。

 

感謝という側面に注目して語り直してみても、粗が見える。

感謝によってつながることは一見とても良いことだが、無理な感謝は「してあげる」に堕落することが言える。当たり前のことに感謝できる人間ほど強いものはないから、自分の努力としてはそこを目指してもいいとは思うが。だが何事にも感謝することを他人に強要することは推奨しにくい。

 

 

第三節  「  」ベースの関係

夫婦的関係

「してあげる」ベースの行為を批判する文脈で、社会的に(人々の間で)上手に生きるために必要なのは謙虚さであり、自分が利己的に動いていると認めるべきだ、と再三述べてきた。しかし、これだけでは自分をいじめることになる。むしろ他人に嫌われるのが怖いという意味では過度に自分の価値を貶めて苦しむことになる。気を使いすぎて逆に人間関係に悩むという自滅はよく見かける。優しい人ほど苦しみやすいという歯がゆさがある。ここを救いたい。

嫌われるのではないか、という不安と闘うことで自滅するのだから、嫌われていないという確証が得られれば一番なのだが、他人のことは理解し尽くせない以上、完全な確証も得られない。どちらかと言えば相手との距離感を測れる方が良いのかもしれない。この人はこの程度自分を面倒に思っているけれど、全面的に嫌っているわけではない、と分かればある意味楽かもしれない。もう少し好意的にこの人は自分のことを全肯定しているわけでは無いが、こういうことをしても許してくれるのは分かっている、という信頼があれば安らげるのかもしれない。一言でまとめれば本音で話せる相手からしか安心は得られないということだ。そのために「会話」が必須の要素となる、ということは改めて強調しておく。

 

目標としている関係は幸せが得られるような関係というよりも、苦悩の少なく安心が得られる関係であった。後者を土台にして積極的に幸福を勝ち取れるような関係性へと発展する、と順序を導入してみてはどうだろうか。例えるなら恋愛から結婚ではなく、結婚から恋愛の順の方がやりやすいのかもしれないということを考えている。一緒にいて安心できる二人が親密度を高めていくといった関係を友人関係とは別に夫婦的関係と呼んで区別してみた。

 

一応、尊敬によってつながる夫婦というのも想像できる。良き友人としてのパートナーというやつだ。

この場合、相手の何を尊敬するかという点で性質が異なる。同じ専門の学者同士が結婚後しばらくして支持する理論の違いから離婚するというように、尊敬の念の消失から関係が破綻することも考えられる。外的に取り出せるものに敬意を抱いていると破綻しやすいように思う。一方で、相手の性質に敬意を抱くのであれば、持続する関係となるかもしれない。この辺は各々のケースによって異なるというか一般性を出しにくいところで議論しにくい。

 

ここでは実際の夫婦がどのような間柄であるかとは別に安心感を抱ける関係性を夫婦的関係と呼んでいるまでである。なぜ夫婦的関係をことさらに強調しているかと言うと、人間関係はライフラインの一つだと認識しているため、健全に維持されていること自体が重要な関係性を提示したいという動機があるからである。切磋琢磨的な関係性は友人関係を活用できている状態であり、自己実現という次の段階を見据えているが、仲のいい夫婦というような関係性は生活基盤として重要な関係性であり友人関係とは別物である。

夫婦的関係で大事なのは尊敬ではなく尊重でつながることだと考えている。相手がどのように振る舞おうがそれを受け入れ、また不快に感じることをなるべく避けることだ。どうしても無理なことや生理的に受け付けないことが人にはあるから、部屋の汚さやごはんの食べ方などのお互いの無理な範囲が重複していない相手とのみ夫婦的関係を築ける。万人に忖度すると何もできなくなるが、一人二人に忖度する分には生活し続けることは可能であり、逆に忖度しても自分の身を滅ぼさないで済むような相手を選ぶことが重要である。

(詳しく無いので安直に触れるべきではないかもしれないが、その意味で同性婚は推奨派である。現状で問題なのは法的に認められていないために夫婦であれば認められるはずの権利が得られないということだったはずなので、やはり個人的な幸福を人間関係から求めようとする趣旨の本文とは議論の位相が異なる)

 

深く人と関わることでも苦労は生じるが、それは「してあげる」ベースの時に生じた不幸とは別物である。それは、互いの懊悩を請け負わなくてはならないという苦労である。しかし、これを不幸と呼ぶべきではない。

「してあげる」ベースのときに関係から生じる不幸な行き違いとは異なり、生きることから生じる苦労だからだ。前者はしなくてもいい苦労で実りのない苦労であるがゆえに避けるべきだが、後者はそうではない。

 

最後に、一瞬ふれた夫婦的関係のつなぎ目となる「尊重」について述べておく。この関係を理想としたいと思いつつも考えを深められていないため、ここから先は漠然した願いに過ぎない駄文である。

夫婦的関係とは尊重と愛でつながる関係だ。尊敬には理由が必要だったのに対して、尊重には理由が要らない。どちらかというと、もはや要らない、というイメージだ。相手の基本的な態度を尊重しているが、全肯定するわけではない。しかし、何をしても干渉しないというか、根底的な人生に対する態度には操作を加えようとしない。ここに至るのは時間が必要で信頼を培わなければならないと思う。

「させていただく」ベースの関係以上にフィルタリングがかかるが、意思に基づいて尊重と愛でつながるに足る相手を取捨選択するわけではない。自然と相手との調和に到達しているようなイメージをしている。繰り返しになるが今のところ漠然としたイメージに過ぎない。今後の課題である。

 

 

第四節  まとめ

好きだったはずの相手を嫌いになったり、仲がよかったはずの相手にいらいらしたりといった事態がしばしば起きる。この原因は日頃から「してあげる」ベースで行為していることである場合が多い。それゆえ、自分が「してあげる」ベースで行為しないことと「してあげる」ベースで行為してくる相手に良好な関係を期待しないということが本筋だ。

「してあげる」ベースで行為する代わりに「させていただく」ベースで行為することを提案したが、いくつか欠点も含んでいる。「させていただく」ベースは尊敬と感謝でつながるが、尊敬は自分を貶めることにつながる可能性がある。そこで、尊敬ではなく尊重によってつながる関係も「させていただく」ベースの関係とは別に維持しておくことを提案した。尊敬によりつながる「させていただく」ベースの関係は友人関係の理想に据えて、夫婦的関係を別に用意した次第である。夫婦的関係は尊重と愛によってつながる関係だと考えているが考え尽くせていない。

結局のところ、とりあえず「してあげる」さえ避ければよく、代わりとして「させていただく」とは友人関係の理想的なあり方の一つを示したのみで、「させていただく」に限局する必要はない。他にどう呼称すべきか(つまり「」ベースと呼ぶのがふさわしいか)は定まっていないが、他にも人間関係の理想として掲げていいものがいくつもあるだろうと漠然と期待している。

 

 

 

おまけ  議論の反省

幸福

人間関係からもたらされる幸福が存在することを前提として議論をしてきた。まずはこちらを考察すべきであったかもしれない。というのは、他人からもたらされるのは幸福ではなくて危害のみであるとするならばなるべく被害を受けないで済むように立ち居振舞うことしかできない。

データの見えざる手』によれば、正確にはそこで引用された研究では幸福度(ハピネスと呼んでいる)の測定を試みている。研究によれば、我々の幸福のうち10%程度しか環境に影響されるものはなく、50%ほどは遺伝的な原因によるという。また、個人の努力に起因する幸福は主に「主体的に動く」ことにより生じるものだという。つまり、自分から何かをしようとすると幸福度があがるということだ。

 

今回の考察では、あわよくば人間関係から幸福を得ようと目論んでいたが、元も子もない研究結果を提示されてしまったことになる。だが、いくつかささやかながら調和を試みてみる。

1.「してあげる」ベースの行為を避けること自体は否定されない。

見逃されやすいが、不幸は幸福の欠如ではない。不快な感情をかきたてられることは積極的な不幸である。これを避けることは精神衛生上、有意義な判断であるということは揺るがないはずだ。人との関係から不幸を被らないことを目指す分には衝突しない。幸せを獲得しようとするとかなりぶつかるのだが。

2.「させていただく」は主体的に動くことをむしろ推奨する

「してあげる」ベースの行為を避けることは、決して人に対して行為することを妨げるものではない。事実「させていただく」は人に対する行為に際しての態度である。「してあげる」ベースでは将来的な見返りを期待しており、受身的に幸せを求めているのに対して、「させていただく」ベースでは自ら行為する際に幸せを享受しようとしている。その点、「主体的に動く」と幸福を得るという先の研究と親和性は高いのではないか。

3.孤独という観点が抜けている

幸福に寄与する環境要因が10%であるとしても、それは人間関係が保たれている状態での検証結果であるかもしれない。孤独は恐ろしいもので、承認欲求も強烈に人に影響する。承認欲求が満たされればなんでも良いと言うわけにもいかず、親密な関係を望んだりもする。しかし、親密さとはなんなのだろうか? これも議論し残したものの一つであるが、提示された研究結果においてハピネスをどのように測定したのかが不明で、一般に幸せと呼ばれるもののうちどの程度をカバーしているかは疑問が残る。親密さからもたらされる幸福は含まれているのか。親密さからもたらされる幸福がそもそもあるのかどうかというところから議論しなくてはならない。

 

 

 利他的行為

全体の議論を反省したとき、贈答モデルで関係を分析していたことに気づいた。時間とお金と労力(その人のことを考えるなども含む広い意味で)を捧げて快感情を受け取る、というようなやりとりとして人間関係を考えていた。

感情を物のように扱っているが、媒介する中間項を想定する必要はあっただろうか?確固として独立した個人があり、各々が自分の益を高めること原則のもとで動くと仮定するなら、中間項を想定してしかるべきだが、違う気がする。ダイレクトにその人、目の前のあなたを求めているような気がする。

 

労力や快感情を定量的に扱おうということ自体に無理がありそうなのだが、さらには相手の状況を客観的に評価することが不可能であるということにも注意しておくべきだ。

利己と利他で行為を区分すると (自分の利益になることを1見込む / 2度外視 / 3わからない)×(相手の利益をA見込む / B度外視 / Cわからない)の9通りあることになる。

3は判断できないの意味である。例えば、親戚の小さい子にお菓子をあげるのはその子を喜ばすけれども教育上よくないかもしれない。

「してあげる」ベースは1B、「させていただく」ベースは1Aか1Cとなる。利他的と言う時には2Aになるのか、それとも2Cも含まれるのか。普通に考えたらAは利他的ではあるのだけど、実際に相手の利になっていると確証することはできないから、そもそもAという項目はあり得ないのではないか。利他的というのはそれ自体かなり複雑な問題を抱えている。

だから、ここではあまり利他的な行為かどうかには引きずられずに自分の利を(できれば相手も利が得られる形で)引き出せたらいいなということを感じている。 この視点から「させていただく」ベースを再考すると、自分も利益を得るし他人も利益を得るということを目指しているには違いない。

しかしながら、関係性から利益を得ていることにはならない。個人が自分の利を増やす営みがまずあって、それを他人と競合しないように配慮しているに過ぎないからだ。関係それ自体から幸せを得ようとすることにはならない。親密さとは何か、問い直したいと思う所以である。


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