思惟漏刻

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『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』

映画『フロリダ・プロジェクト』 の感想

途中からネタバレ

 

冒頭までのあらすじ

フロリダの某所でムーニーは同じ年頃(小学校の低学年くらいと予想される)の子供たちとやんちゃばかりしている。髪を染めた若い母は無職で、母娘二人暮らし。同じモーテルの友人の仕事中に子供を預かっているが放任主義で、子供たちに好き放題させている。と言っても愛情に欠けているのではなく、むしろとても可愛がっていて一緒になって遊んでたりして、友達みたいな距離感の良き母親。ムーニーとその仲間たちは街中をたくましく遊び場に変えて何もかも楽しんでのけるが、ある事件をきっかけにムーニーの周りは少しずつ変わっていく。

 

 

感動する系統というよりは、メッセージ性を感じる映画ではある。

あるいは僕の琴線に触れなかっただけでこれで泣く人もいるのかもしれない。むしろいそう。

親子愛や子供の純真さと貧困とがなかなか共存してくれなくて、それでも目の前のことを楽しんでのけるムーニーの姿に何も感じないわけではない。

 

予備知識を追加しておくなら、撮影方法が凝っているとのことで35mmで撮影しているそうだ。

ショーン・ベイカー監督は以前にiPhoneのみで撮影した映画を撮ったこともあるようで映像にこだわる人らしい。

映画の技術的な面にはとんと疎いのだが、デジタルで撮影せずに昔ながらのフィルムを用いた撮影という理解については間違っていないだろう。

レコードにはCDには無い良さがあるなどとよく聞くが、案外的を射ているらしくレコードの場合は可聴領域を超えた音や聞き取れないほどの小さい音も記録しているから、それが雰囲気として感じられるらしい。逆に、デジタルでも超高感度で記録すればレコード特有の雰囲気を再現できるだろうという話もある。

たしか、落合陽一の『魔法の世紀』に書いてあったことだ。

 

この映画についてそういう効果があったのかは不明だが、郷愁を誘う雰囲気を感じたのは映像によるものだったような気がする。

まどろみっぽさがあって夢うつつを演出しているようにも思えた(のは、多分観終わってひねり出した感想につられた部分もあるかもしれない)

 

 

以降、観終わった前提で書く。要するにネタバレ込み。

   

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この映画、難しい。

特にラストがそこで終わってしまうのかという終わり方で、一体どう感じればよかったのだろうと思った。困惑した人も多いようで、検索すると予測変換に「ラスト」が出てくる。

しばらく考えて、自分なりの理解を得たので書いていくが、一旦別の論点を整理したい。

 

貧困が大きなテーマであることはいいだろう。

彼女たちは選択の余地がほとんどない状況でいっぱいいっぱいの生活をしている。特にヘイリー(ムーニーの母)は無職だし詐欺みたいな稼ぎ方をしてるし逮捕歴もある。

たまたま最初に児童福祉局が来たけれど、そうでなくても長続きはしない日常だった。

少なくとも、この映画を児童福祉局への批判と見ることは適切ではない。

児童福祉局は貧困者に襲いかかる社会システムの一例に過ぎなかったからだ。

 

しかし、だからといって貧困が「貧乏はつらい」とか「貧乏でも明るくやっていける」といった感想は安直すぎる。そんな気がする。

ゆえにこの映画、難しい。

 

 

くりかえしだが、どんな感想を抱けばいいのかまったく分からなかった。

自分の感性の問題なのか、良かったのか悲しかったのかすら曖昧で釈然としない。

 

読み取れなかった原因の一つは、フロリダがディズニーリゾートのある夢の国であることを知らなかったせいだ。

ディズニー自体に縁がないものだから、作中に出てきたリストバンドが入場のみならず色々なことに使える嬉しいアイテムらしいのだが、それすら全く気づかなかった。

言われてみれば、ブラジル人が喧嘩のときディズニーがどうこうって言ってたが、それも気に留めていなかった。

ともかく、舞台が夢の国のすぐそばであることを踏まえれば見えてくるものがあるし、最後に唐突に出てきたディズニーも全然唐突でなかったのだと納得された。

 

いまだ、明瞭でないが糸口はつかめた。

夢を次なるキーワードとして注目した。 

 

夢というのは不思議な言葉で日本語英語どちらにおいても、夜に見る夢と将来の夢の両方の意味がある。

さらに、現実逃避のネガティブな意味で使われたり希望的なポジティブな意味で使われたりして、言うなれば二重に両義的な言葉だ。

 

個人的には「現実を見ないで夢見ちゃってさ」のような使い方をすることが多い気がする。夢を見るのはイタいという風な。

この印象が一般的だとは言わないけれど、少なくとも夢と現実とが二項対立であって普通、これらは截然と区別される。

 

すると、この映画はどっちなのだろう?

ムーニーが夢の国に行くところで映画が終わる。

このラストは肯定的か、否定的か。

 

現実逃避と見ることは容易だ。

何と言っても児童福祉局から逃げているのだから。

夢の国に行ったところでいつまでも児童福祉局から逃げられるわけではない。

 

しかし、必ずしもそうとは言えない理由もいくつかある。

 

ムーニーは小さいながらに夢見がちな女の子ではない。母親の香水売りの戦力になっているし、お金がなくてもアイスを手に入れる狡猾さもある。火事を起こして大人社会を動かす力もある。

ムーニーはいつだって現実世界の自分の立ち位置を知った上で自分の力で対処してきた。最後に夢の国に行ったのはジャンシーに連れられてだったが、ジャンシーだって彼女が自力で獲得した親友なのだ。

 

そもそも、実際問題として子供にできることはほとんどない。子供にとって児童福祉局という現実に対抗する手段は逃走を置いて他にない。だとすれば、あのラストを現実逃避と言うのは理不尽なほど厳しいのではないだろうか。

(ちなみに、弱者に選択肢が限られているというのは貧困者が生活を立てる困難さと同じ構図だ)

 

ムーニーはすでに現実へ立ち向かう力を持っていて、しかし、子供ゆえに(あるいは貧困ゆえに)どうしようもない場合もあって、最終手段として夢の国へ逃げ込んだのではないか。

逃亡というよりはむしろ最後の反撃として。

 

 

多分、ムーニーは児童福祉局の手によりどこかへ連れ去られてしまうだろう。

そうでなくても、あの生活は何年も続けられるものではない。

現実は非情なまでに母娘を襲う。

 

だからこそ、これは夢から覚める直前のまどろみの映画だったのだ。

まどろみとは夢から覚めるか覚めないかという境界の時間であり、夢を見ていられる子供と現実に向き合わなければならない大人との狭間であるムーニーの世界そのものでもある。

現実に引き込まれる直前の、夢の最後のひと絞りのような世界。

 

 

覚めてしまえば夢は思い出となる。

エンドロールを眺めながら次第に足音が大きくなってくるのを聞きながら、我々は夢から覚めて、子供のムーニーと出会うにはもう記憶に頼るしかない。

その時、35mmフィルム映画のようなどこか懐かしい映像で、あの楽しかった日々を思い出すだろう。

 

 

 

 

補足

 

他の方の感想を見ていると、人それぞれ異なった見方をしていらっしゃって面白い。

読んでいるうちに、また新たに書きたいことが出て来たのでお二方紹介したうえで補足する。

 

一人目の方は、ムーニーは児童福祉局の登場で初めて自分の境遇が異常であることに気づいて泣いたのだという見方をしていらっしゃった。

不思議なことに、僕はそういう可能性に全く思い至らなかった。

ちなみに僕の見方では、ムーニーが初めて泣いたあのシーンは初めて対処できない現実にぶつかってしまったせいで、自分の中では辻褄が合っているつもりだ。

ムーニーの心情解釈には違いがあるのだけれども、ラストの解釈は近いようだ。異なる見方をするのも面白いから紹介させていただいた。ディズニーについて詳しい予備知識があり面白い記事だった。

『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』感想(ネタバレ)…夢の国はどこにある? : シネマンドレイク:映画感想&レビュー

 

別の方は、ヘイリーがアメリカ的個人主義の代表であることに着目して、個人主義の欠陥を突いた映画だという分析をなさっていた。

こちらの方のラストについての解釈は、差異はあれど僕と同じような結論に至っていた。

個人主義というのも僕の頭に浮かんでこなかった言葉ではあるが、なるほどと合点がいった。「言ってしまえば子供は他人だから個人主義を突き詰めると子供を育てる意味がなくなってしまうな」と最近疑問に思ったばかりなので、この着眼点が出てこなかったのが我ながら不思議だが、ともかく個人主義という視点を得れば理解しやすい。

アメリカの一般的な事情を触れた上での結論で、説得力のある良い記事だった。以下にリンクを貼っておく。

【ネタバレ】『フロリダプロジェクト』感想・解説:ラストシーンに込められた子供から大人へのメッセージ | ナガの映画の果てまで

 

 

色々な記事を見て回っていると、ヘンリーがクズであるという認識が薄かったことに気づいた。理由は二つ思い当たる。

ヘンリーが犯罪まがいのことをしているのはそうでもしないと生活できないからだと思っているのがまず一つある。悪いのは貧困だ。ホームレスに十分なお金を援助したらきちんと社会復帰するという実験もあったりするから、割と強い根拠がある。出典は『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』だったはず。

貧困が原因だとしても、ヘンリーが改心すればいいじゃないという見方もあるのだろうが、それは裏を返せばヘンリーのようなパーソナリティーを拒絶することを意味する。

どのような人格であれなんとかして受け入れられる社会になっていかなくてはならないという理想があるから、というのがもう一つの理由。人間の行動は自由意志で全てなんとかできるわけではない。ヘンリーがああいう風になっているのはヘンリーを育てた環境や親や金銭的事情など様々な原因があるのに、ヘンリーがクズだから相応の罰を受けているのだなどと考える方が間違っていると思うのだが、どうだろうか?


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