思惟漏刻

本のおすすめと思考とっちらかしサイバーデブリ

『夢を与える』 綿矢りさ

久々にネタバレをしながら本を紹介する。

ネタバレをするのは、この本が予想外なオチを期待して読む本ではないと判断したからだが、あくまでも個人的な判断である。

それから、このブログで本を紹介するときは「読んだはいいがこの本の何がそんなに良いのかわからない」に自分の解釈でもって応じる方針でいこうと考えているからというのも一つある。

 

なので、初見を楽しみたい人はこの先を読まないでほしい。

 

   

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ストーリーを追っていく前にざっくりとこの本の一番凄いところを伝えておきたい。

端的に言うとタイトルだ。

『夢を与える』というタイトルが凄まじい。

 

何を言ってるのかと思われるかもしれないが、通して読んでみるとこれがかなり秀逸にできている。

勝手にふるえてろ』や『蹴りたい背中』などもそうなのだが、ストーリー中のごたごたしてた全てがズバッと一言にまとまっていて、唱えるだけで一瞬でフラッシュバックする力がある。

  

夢を与える。キーワードは夢だ。

しかも与えられるタイプの夢。

現実味のない理想であるとか、ほとんど嘘と変わらない性質の夢だ。 

 

 

クライマックスのあたりがメインで語りたいのだが、そのほかにもところどころ注目したいところがあるから、少しずつストーリーに沿って要約しつつコメントしていく。

 

本作の主人公はのちに子役として大活躍する夕子なのだが、話は夕子の母親(幹子)が当時はまだ彼氏だった冬馬に結婚を迫るころから始まっている。

幹子は冬馬の感じていた負い目を利用して別れ話をいなして、惰性的な交際延長を捻出した隙に避妊具に細工をし妊娠して結婚を勝ち取ったのだ。

その原動力は予想外の運命に対しての「冗談じゃないという怒り」だったとある。

 

おわかりだろうか?

幹子は主人公クラスの「女」なのだ。

山本文緒の『恋愛中毒』さながらの我の強さを備える女として幹子は書かれている。『恋愛中毒』では主人公は恋に翻弄されつつ恋に生き続けるが、幹子は(おそらく現実の女性にもかなり多いと思うのだが)結婚し出産を経て生まれ変わる。

 

出産は女性にとって人生のターニングポイントになる重大イベントなのだ。

ということを、未婚男性が言っても説得力に欠けるが、女性を書くことについてはピカイチの綿矢りさは出産を機に幹子を変えたのだ。

具体的に言えば、恋人を振り回し自分の思い通りに操ろうとしていたのが一転、夕子のために自分の全てを尽くす献身的な人間に生まれ変わった。

そうは言っても夫の前ではかつての自分の姿が前面に出てくるし、年月を経ると「夕子のため」にしていることが「自分が夕子のために生きている事実に酔うため」にしているように見えてきたりもする。

 

夕子のストーリーでも発揮されるのだが、綿矢りさは話をリアルっぽく「匂わせる」のが異様に上手い。

それでいて夕子の一人称語りが大半を占める本文において、幹子のストーリーが重層的に構成している。

脱帽ものの手腕だ。

 

 

続けよう。本筋である夕子の成長が書かれる。

父がフランス人と日本人のハーフであるせいもあり、夕子は顔立ちのいい女の子に成長する。母の知人の紹介で雑誌などの赤ちゃんモデルに誘われ、それに注目したある企業が半永久契約を結びたいと打診してくる。

半年に一度CMを撮り続けることで視聴者に成長を見守ってもらう形になり、みんな知ってるチーズの女の子という国民的キャラクターを作ろうという趣旨だ。

迷った末に両親は承諾する。(ここで夫婦の衝突も垣間見える)

狙いは当たり、夕子が成長してくるとさらに人気を博し、チーズのCM以外の芸能活動にも出るようになる。レースクイーンのグループに年下の妹分のようにして所属させてもらったり、ドラマやバラエティに出たりと活躍の幅が目に見えて広がっていく。

芸能活動を控えて勉強に専念して高校受験に成功すると人気は上昇し、次第に仕事に忙殺されるようになっていく。人気に伴い、あらぬ噂や学校で浮いていることを週刊誌に流されるようになる。

 

かなり飛ばし気味にあらすじを書いたが、本文では時間の経過は早いように見えて、かなり充実した書き振りとなっていて、まるで夕子の人生を追体験しているかのような濃密な読書経験が味わえる。

 

自分の過去を振り返ると、たとえその瞬間には何気なく思えるようなことでもじわじわといつまでも影響を受けていると後から気づくような出来事が人生には多々あるが、夕子にまつわるそうした「何気ないが重要なイベント」を書き漏らさず、しかもまた時間経過が不自然にならないような丁寧な描写となっている。

(何気ないが重要なイベントについては、最近読んだ魯迅の『小さな事件』という短編に引きずられた感想かもしれない。『小さな事件』はここらへんのことを象徴的に書いてあって面白かった。講談社文芸文庫『阿Q正伝』に収録されていたので良ければ)

 

母となった幹子が時に昔の自分勝手な幹子に立ち戻る描写がリアルだったように、純真無垢だった夕子が次第に現実を知るようになる様もリアルに書かれている。

特に、親との距離が遠のいたり近づいたりするのは著者本人の話ではなかろうかと思うほどだった。

今まで疑問にも思っていなかったことが、理想に過ぎないのではと疑念を抱くようになる。この頃から「夢」が善かれ悪しかれ夕子の人生の中心に鎮座し始めるが、夕子やここを読んでいた自分には自覚できてなかった。

まさしく、あの出来事が重要だったのかと遅れて気づくのだ。

 

 

ところで、自分が読んだ綿谷りさの小説では必ず「主人公の女の子が関わるべき男の子」というのが登場していた。

『インストール』では「かずよし」が小学生ながらに女子高生たる自分の知らない世界を見せてくれる。

蹴りたい背中』では自分と同類のクラスの余り者かと思われた「にな川」、好きなモデルのために生きる軸のある人間だった。世界を冷めた目で見て何者にもなれていない自分とは正反対の人間だった。

勝手にふるえてろ』では初恋の人「イチ」のことが忘れられない自分に精一杯アプローチをかけてくれる「二」がいた。「二」は空回りしつつも現実から離れず一生懸命だった。

 

 

高校生になってようやく夕子も恋をする。しかし、今紹介したまでの段階で出てくる男性はほとんどいない。

主だった男性の登場人物としては父・マネージャーの沖島・中学校の同級生の多摩くらいのものだ。

 

浮気を疑われて母との仲が悪くなり、隠れて両親が喧嘩をしているのに夕子は気づいており、両親それぞれへの関係も変容していく。

母のストーリーが垣間見えるシーンだが、衝突は両親だけに収まらず積極的に夕子を巻き込んでいる。というよりも夕子の視点で(直接的にはなんの影響も受けていないのに)巻き込まれているのが分かる。

衝突を察した夕子は父を介して母への疑念を抱き始める一方で、夕子の仕事における母の正しさは認めざるを得ず今まで通り結果的に母に従っている。表面上は今まで通りでありながら、内面的にはひずみが生じるこの場面はぞっとするものがある。

 

ここも個人的にはかなりリアルに感じる。これが特別な非日常の出来事ではなく、むしろ日常そのものとパラレルだからだ。平和に見える日常も小さなひずみの発生・修復の危うい均衡のうえに成り立っているものだ。だから、小さかったはずのひずみが時に修復不可能な亀裂になり(一方から見れば)唐突に関係は終わりを告げたりする。

 

沖島

沖島は頼りになるマネージャーで母だけでは夕子をサポートしきれなくなったときに雇われたチーズの企業の人間。かなり好印象で書かれているが、最終的に夕子の恋愛事情に口出しし冷徹な対応をしてか相当怖い人物となる。しかし、よく読み返すとこの時点で不和の芽が出ていた。

タイトルでもある「夢を与える」を初めに言ったのはこの沖島だった。インタビューで将来について聞かれた時に「夢を与える人になりたい」と答えるようにとアドバイスしていた。沖島との対話で「夢とは嘘である」ということに至るも夕子はついに納得できなかったのだ。

その後のインタビューなどで自分が求められている答えが本心でないことに疑念を抱くが、その発端がここにあったようだ。

 

多摩とは小学生の頃からの知り合いで、CMのことでからかってきたクラスメイトの一人なのだが、嫌がらせの意図を感じさせない不思議な友達だった。多摩との思い出はほとんど日常の何気ないもので、家にちょっと遊びに行った程度のものでしかない。

この後、多摩本人が登場することはない。淡い昔日の思い出のようなものだ。

 

 

あらすじの先を続ける

 仕事に忙殺される夕子ではあったが、過酷なスケジュールになんとか耐えていた。大学受験をすることでみんなが親しんでいる普通の女の子という本来のキャラクターを通そうと方針が決まった。しかし、人生の転機が訪れる。深夜番組に出ていた無名のダンサー、正晃に心を惹かれ、ツテを使って接近し恋に落ちた。週刊誌の記者にバレないようにラブホに入り浸り彼の友人たちと夜な夜な遊びに出るようになり、素行は荒れて行く。正晃との関係は世に知られていなかったが、それはマネージャーの沖島が握りつぶしていたためだった。しかし、ある事件をきっかけに取り返しがつかなくなる。スポンサーや父や母がそれぞれに行動をしようとする。夕子はどうなろうとも正晃との愛を信じていたが、自分が夢を見てしまっていたのだと悟り、最後には夕子は独占インタビューで偽らざる真実を語る。

 

エンディング付近は詳細に語りたくない。

綿矢りさがその執筆力でもって築き上げ、最後の最後に持ってきた全力パンチを安易に切り取って出す真似はできないのだ。

 

とはいえ、一番語りたいのもこの辺のことでジレンマだったりする。

一つ、取り上げるとすれば「夢を見てしまっていた」だ。

夢を与える側の人間だったのに、自分はドラマのような恋に憧れていたことに、全てが崩壊してようやく気がつくのだ。

 

ではこの話は何もかも手遅れに終わったバッドエンドか。

全くそんなことはない。夢見る少女が一人の大人の女性になった瞬間を最後に据えた大逆転劇となっている。

『夢を与える』は現実がいかにクソかを書いた小説と言えるかもしれない。現実がとんでもなく厳しいものだと。のほほんと生きてられるようなもんじゃないんだぞという静かなる怒りを時折感じる。けれども、現実がクソだと言っているだけではどこにもいけない。クソな現実をクソなものだと心得ていればこそ現実を生きていける。

夕子はようやく、夢から覚めて現実を生きていく力を得たのだ。

 

 

男は中二病を卒業して大人になるし、女は夢見る少女を卒業して大人になるのだと時々思う。

年齢的には成人していても、あるいは老人となっていてもまだ悪い意味での子供らしさを残している人は多い。僕には彼らが、過去のどこかですべきだった脱皮を経ずに年齢だけ重ねてしまった人たちに見える。

必ずしも挫折の形をとる必要はないにしても、わがままな大人を見て呑気に育ったのだなと感じてしまうことは多々ある。逆に若いのに畏怖してしまうほどに大人びた人もいて、どのような生き方をしたらそうなるのだろうと思うこともある。

夕子は子供の頃から大人たちの世界に囲まれていて、大人になるのも早かったということなのかもしれない。崩壊の後、それまでの功績は一転して夕子の未来へのしかかるだろう。それでも夕子はきっと生きていける強かさを備えている。

しかし、失うことによらずとも大人になれたかもしれないという期待をしてしまう。多摩の記憶が夕子の過去の唯一の光となったように。


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