思惟漏刻

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思惟漏刻 [破滅的不眠症]

眠るのが苦手だ。

眠るのが、というよりは睡眠にまつわる全般が苦手だ。眠ること自体は好きなのだが、苦手なのだ。特に。その周囲の諸々が。

夜は寝付けず朝は起きれない。シエスタなど器用な真似はできない。休日は当然のように昼まで寝る。一時期は毎夜、悪夢にうなされた。

 

同じ境遇の人はゴマンといると思う。

世に快眠グッズだとかよく眠る方法論だとかが溢れているのは言うまでもない。睡眠に悩まされる多くの人がそうであるように、僕も早起きを試みたことがある。

 

結果は惨敗だった。

アラームが聞こえない。聞こえてもすぐに二度寝して、いつも通りの時間に起きる。起床が遅いから夜寝付けない。

この繰り返し。たまたま起きれたときは、こんなにも時間があると感動したが、感動を体験した後だと、寝過ぎの自己嫌悪が増幅してやってくる。

なにが早起きは三文の得だ。たまに降ってくる三文の得のために精神エネルギーを浪費させる早起きの構造に気付いたとき、僕は潔くたっぷり寝ようと決めた。一種の諦念だ。

 

かと言って、眠れない夜はやはり苦痛だ。色々やっているうちに深夜になっていた、とかならまだしも、寝ようと思って布団の中で何もしないまま三時間、ともなると憤死しそうになって、なおさら寝付けない。

寝れないモードを悟った瞬間、坂口安吾の『白痴』を模写して心を鎮めてから再び布団にもぐるようにしていたことがある。効果はてきめんとは言えないが、何もできないよりは遥かにマシだった。

 

一度か二度、深夜の散歩に出たこともある。

家族を起こさないように無音で扉を開け閉めするところからが深夜徘徊の醍醐味だ。深夜の町並みは見知った町とは思えない雰囲気を醸し出している。誰もが寝静まっているような夜の住宅街にもトラックは走っていて、等間隔に並ぶ街灯が明るく交番やコンビニにはわずかながら人の気配がある。

ささやかな背徳感には中毒じみた心地よさがあり、自分はこれに病み付きになって寝れないふりをしているのかもしれないとすら空想する。

 

眠れないときは、こうまで眠れないならばいっそ眠らないでいてやろうかと自暴自棄になることも少なくない。

ひとしきりの妄想に飽きたら、タイムラインに誰もいないのを確認するかのようにTwitterを開き、スマホを手放して再びくだらない考え事の渦に呑まれていく。自分の行いすべてが眠りの導入を妨げると知っているのに、むしろ、だからこそ愚行を重ねたくなってしまう。

 

眠れぬ夜はそういう破滅衝動に駆られやすい。

そういえば、鬱に近い精神状態のときも破滅願望が強くなる。心が弱っているときにそうなるのかもしれない。

 

だが、破滅衝動とは何のためにあるのだろう?

生物として必要な機能なのだろうか。すべての生物機能に進化学的な意味合いがあるとは言い切れないけれど、考えてみる価値はあると思う。

 

自分が死ぬことを望むというとアポトーシスを思い出す。細胞死とも言われ、細胞が自分から縮小して死ぬ自殺プログラムのことで、外的要因による不本意な死とは区別される。アポトーシスの場合は核の命令がスタートで細胞が縮小し始める積極的な死だ。

これにより、新陳代謝がなされたり、がん化した細胞が初期段階で死ぬように予防できたりする。

 

それから、レミング集団自殺という話も思い出すが、こっちはどうも嘘らしい。

ディスニーの映画『白い荒野』でセンセーショナルなレミング集団自殺が演出されたのがきっかけで広まったが、異常なまでに繁殖力が高いレミングが増え過ぎて餌が無くなり川だろうが崖だろうが突き進んでいく結果として事故死する個体が続出するというのが実際らしい。

とはいえレミング自殺神話の説明は面白いものがある。急速な増殖と優良個体以外の積極的自殺で効果的に生存・進化ができるというものだ。かなり昔のレミングの化石が見つかっているし進化しているかは疑問だが、生き残っているのだから生存戦略としては正しいのだろう。 自殺でないにしろ、爆発的に増えて一気に死ぬことには違いないのだ。

 

個体を犠牲にして属レベルの生存を優先するという意味では、企業における定年退職みたいなものだろう。

 あるものが死ぬことで「あるもの」を部分に含む全体が延命すると説明すれば、アポトーシスの場合と変わらない。

 

破滅願望が奇妙に思えるのはここだ。

自分が死んだとして全体とは社会か。ならば鬱傾向の無い個体が選別されるように人間はプログラムされているのか。しかし、破滅願望と言っても死に至るほどのものではなく、自分をいじめて終わる程度のものだ。進化学が入り込むほどのスケールではない。

だから、ずっと破滅願望というのがよく分からなかった。

 

 

進化学的な発想が不適切だったのかもしれない。

最近になってそれらしい答えを思いついたのは別の疑問が発端だった。

 

生きるのがつらいのに、なぜ死なないのか。

 

これは僕の敬愛するSF作家の神林長平さんの『戦闘妖精・雪風』シリーズのどこかで主人公の抱いていた疑問だ。

自分のなかで漠然と抱いていた釈然としない感じが、ここに疑問をいだいていたのかと判明し、ようやく一歩前進できた。SFを読むのはこういう楽しみがある。

 

例えばTwitterでも「死にたい」とつぶやく人は多いが、ほぼすべてが「○○が面倒」「休みたい」など別の願望に置き換えられる。(もちろん本気で死のうとしている人もいるだろうが)

そういうカジュアルな「死にたさ」は、理想的な生活と現実とのギャップが大きいことを意味する。

こんな風に生きるくらいなら死んだ方がマシだ、という気持ちは多かれ少なかれ誰もが抱いているのだろう。

理想的な生>死>到底受け入れられない生き方

という図式があって、貞節を守って自害する貴婦人や焼身自殺をした高僧などは死のボーダーが異様に高いということだ。高校生のときに授業で聞いた鶏口牛後が釈然としなかったのも人によって理想のあり方が違うのに鶏口の方を薦めて納得させるのは無理があると感じていたからだと今なら思う。

 

破滅願望に話を戻すと、この「こんな風に生きるくらいなら死んだ方がマシだ」がミソなのではないかと気付いた。

今でこそ言語化できたが、死んだ方がマシという気持ちは本来、漠然と感じるものだ。それを誤認したのが破滅願望ではなかろうか。 ぶっ壊してもいい今の生活に対する破壊衝動が自分にむけられたというような理解。

 

 

そういえば不眠症が出てくる作品は、主人公が理想と現実の狭間に揺れていることが多い気がする。どちらも以前の記事で書いたのだけど、もう一回紹介したい。

neffle.hatenablog.com

 

 

映画『タクシードライバー』は不眠症の男が眠れないからと深夜のタクシードライバーをやることにする。いい大人ながらも厨二病くさくかっこいい自分に酔いしれている。惚れた女とのやりとりや見かけた少女へのお節介を経て大人になっていくのだけど、終わらせ方が本当に痺れる。僕はこの映画の監督がとても好きで何本も見てる。マーティン・スコセッシ監督の名は覚えておいて損はない。

 

ファイト・クラブ』も映画だ。原作は小説。これも主人公が不眠症で夜な夜な開かれるファイトクラブに参加する。要するに殴り合いをするだけだが、これが彼の人生の歯車を動かすことになる。自分の理屈を演繹してみると、ひょっとしたら自分に対する破壊衝動を他人への暴力行為に置き換えて発散しているのかもしれない。

 

 

自分が眠れないときのことを思い出しても、将来の展望を妄想してうきうきしているときだったりする。

だとすると、たまには眠れない時があるくらいの自分の方がまともに思えて安心してしまうのだけど、こうしてまた一つずれていくのかもしれない。 

 


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