思惟漏刻

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青少年のための自殺学入門 (寺山修司)

ハイデガーは人間を「死への存在」と呼んだ。

大雑把に、死を意識することでより人間らしく生きることができるというような意味で、大雑把な理解なりに「そんなもんか」と思っていた。

ハイデガーの文章は読んだことがないが、クセのある文章が彼のカリスマ性を高めていたとは聞いたことがある。哲学者としてもよく聞く名前であるし、それなりに深い考えがあるのだろうとは思うが、ざっくりとしか知らないためにその偉大さがあまり分からない。

まさか「明日死ぬと思って生きろ」なんていう訓示を垂れるおっさんではあるまいが、死を意識することでどれほど人は変われるのだろうとも思っていた。

 

しかし、思い返せば世の中には喪失の物語は無数にある。少し前のものだと『世界の中心で愛を叫ぶ』や『一リットルの涙』があるし、最近、流行ったものの中にもまさしく誰かが死ぬような物語がある。(思い浮かぶ方は多いだろうが、ここで紹介すると即ネタバレになるので名前は伏せる)

そのような小説を読み、映画を見た後は確かに「なんか、こう、ちゃんと生きるぞ」というような気持ちになる。漠然とし過ぎているためか効果はたいてい数日しか続かないが、惰性で生きることに抵抗を感じるようにはなる。

 

他人の死でこれだけ効果があるのだ。いわんや、己の死をや。

例えば、十年後に自分が死ぬと想定してみる。僕はまだ学生で独身だから、結婚が五年後だとしたら奥さんとは五年しかいられない。だったら一生独身でも、いや、それにしても何かをやり遂げないと死ぬに死ねない。何かってなんだ。社会に出ても下積み期間のうちに死んでしまうことになる。趣味に打ち込むか。それもまだ芽の出ないうちに死にそうだ。うぅむ。十年はさすがに短すぎたか。しかし、人間いつ死ぬとも限らない。それに、何年生きれば満足できるというのか。というより、満足できる死に方とは一体…

お分かりいただけただろうか。どつぼにはまってしまった。

 

特に、死について深く考えていない者が急に焦ったところで目に見えているのだ。

「このままでは、なんかヤバい」と思うことには成功したが、思考の浅さはどうしようもない。

その点、とことん死に向き合った人間の言葉は重みが異なる。

 

これが、寺山修司の『青少年のための自殺学入門』を読んだ感想だ。

表題を含むエッセイや取材の記録が収録され、そのすべてが死にまつわる。河出文庫から出された寺山修司コレクションの十冊目にあたり、いかにも河出文庫らしいセンスの高さだ。

僕は古本屋でたまたま見つけた(こういう出会いをした本は大抵当たりだ)のだが、今は新装版で出ているらしいから収録されている内容は少し違うかもしれない。

 

表題の著述のなかで、自殺とは何かという考察がある。

過労のあまり電車に飛び込むような自殺は他殺だと寺山修司は述べている。彼らは環境に殺されたのだ。自殺とは自分の人生を華々しく終わらせる美学にもとづいた行いなのだと。

説得力のある言葉だろう。それから、続けて世の中の機械は他殺機ばかりだと述べたりもするのだが、本題はやはり自殺学の入門なのだ。

だから、死に方のみならず遺書の書き方だとか自殺の場所の選び方までレクチャーしている。自分で考案した自動自殺マシンの原案まである。

常識的に考えて分かるだろうが、自殺学入門とは言えど誰も彼もに死ねと言っているわけではない。むしろ、自殺学入門の講座を受けることで自殺することの難しさをひしひしと感させる作りになっている。

要するに、ちゃんと死ぬためにはちゃんと生きなくてはならないのだ。

 

 

 

そこでふと気付く

これは、まるでハイデガーそのものではないか

 


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