隷属なき道
普段は小説ばかり書評していますが、良いものは小説であれこういう学術書であれ紹介していきますね。
本書のタイトルは省略なしだと『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』と、言いたいことを全部詰め込んだようなタイトルですね(笑)
実際、内容は一つのテーマに絞られているわけでもありません。筆者はベーシックインカムを推奨している第一人者のような立ち位置らしいのですが、そう主張する上で必要な周辺状況への考察が優れていて、その結果本書のような様々なテーマが書かれることとなったようです。
さて、そのテーマですが大きく分けて以下のようになっています。
それぞれについて簡単に紹介していきます。
1.ユートピア
現在の日本に住む私たちは、衣食住に困ることもなくそれなりの贅沢ができる生活をしています。
これは、昔の人々が描いたユートピア、すなわち理想郷そのものです。 違うのは、我々がいまだ幸せの絶頂でないということ。十分な生活ができているはずなのになぜ幸福になりきれないのでしょうか。
そもそも、欲しいものは何でも手に入り食に困ることの無いユートピアが語られたのは食糧難で人が死ぬ時代でした。彼らは困窮した生活が生み出した願望がユートピアの姿だったわけです。
このことから、ユートピアとは不足の反映であり、希望の反映でもあると言えるでしょう。
筆者は象徴的に以下の文章を初めに掲げています。
ユートピアの描かれていない地図など一見の価値もない。いつの世も人間が上陸する国がその地図には載っていないのだから。人間は、その国にたどり着くと、再びはるか彼方の水平線を見据え、帆を上げる。進歩とは、ユートピアが次々に形になっていくことだ。
つまりはユートピアとは我々が目指すべき指針であって、今、ユートピアが描かれないというのは目指す先を見失いつつあるということなわけです。
続いて、「退屈」こそが次の我々の敵になるだろうとアシモフの言葉を引用しています。
人間は暇な時間にあまり耐えられないと言われます。そして、AIが登場し発達していくと人間の仕事が減り暇が増えることとなるでしょう。
退屈さとどう向き合えば良いのか、これからを生きる私達が考えなければならない問題です。
ところで、筆者はGDPの有用性を過大評価しているとの見方も示しています。(GDPのために丸々一章使っているほどの力の入れようです)
なぜ、力を入れているのかと言えば、GDPの高い国が良い国であると無条件に受け入れるのが常識となってしまい、目指すべきユートピアが描かれなていないからです。
目標を達成したのにどこか幸せじゃない、というような悩みとよく似ています。
さも万能の指標かのように使われるGDPですが、当然、数値として反映しきらない側面も多々あります。
そもそもGDPとは
「GDPは、一定期間内にある国が生産する付加価値(物とサービス)の総計で、季節的な変動、インフレーション、おそらくは購買力を補正したものである」
そして問題は、金融業などの大金が動く事業はGDPに影響しやすい一方で、教育などのサービス業は質が向上しても、なかなかGDPに反映されないということです。
これらはいずれも生活の質の向上でありながら、あったはずの収益をなくすことになります。逆に、病気や汚染や犯罪はGDPを増やすことになります。
つまり、GDPしか見ていないといかにも悪いことであるかのように捉えられてしまうのです。
では、他の指標を作れば良いのか?
一時期ブータンが国民総幸福量という指標を元に、最も幸せな国として有名になったこともありましたが、指標である以上、何かを見落とし得る宿命からは逃れられません。
であるから、目指す未来(ユートピア)が必要になってくるのです。
数字による統治は、もはや自分が何を求めているのか分からない国、ユートピアのビジョンを持たない国が最後にすがる手段なのだ。
ここから個人的な感想なのですが、ユートピアを書こうとしてもディストピアになってしまう印象を強く感じています。最近の小説でもディストピアは見てもユートピアは見ない。
感動を誘う小説も社会のあるべき姿を見せてくれるわけではない。
そういうわけで僕はけものフレンズに感動したわけですね。多様な個性の調和。
安易に仕事に充足感を見出すのではなく、楽しく幸せに生きていける世界。誰かの不幸を踏み台にしていることなどは決してなく、みなが自分らしく生きていくことが幸せに直結している。あんなに素晴らしい物はないです。
これからもユートピアを描く作品が増えていってくれればいいなと思っています。
2.ベーシックインカム
最近なにかと聞くベーシックインカム。
簡単に言えばお金をばらまく制度。筆者はかなり強気なベーシックインカム推奨派です。
筆者はベーシックインカムを語るにあたり、福祉の割に合わないことと貧困自体の害について言及しています。
福祉が割に合わないとはどういうことでしょうか?
ホームレスを例にとり説明をしています。彼らの一部に家と金を渡す実験が行われました。
大した結果が期待されていない実験でした。なぜなら、ホームレスは怠惰でそうなった存在であるから酒や煙草やギャンブルに費やしてしまう、つぎ込むだけ金の無駄だと思われていたからでした。
ところが、彼らがそれらに費やした金はほとんど無いと言ってよく、一年経っても与えたお金の三分の二以上を残した状態で、しかも仕事を得るために必要な準備を整えていたのです。
初めに与えた金額と、彼らトラブルメーカーのために警備費やら訴訟費やらで費やされていたお金を比較すると圧倒的に後者の方が多額でした。ホームレスにフリーマネーを与えることで政府は大幅な費用の削減を果たしたのです。
貧乏人は金の使い方が下手という味方が強いですが、実際のところは金の使い道を一番知っているのは本人だということが筆者の一貫した主張です。
それがベーシックインカムの推奨につながるわけです。
しかし、現状、貧困者を手助けする奨学金などの仕組みは多々あります。それではいけないのでしょうか?
それを考える上で貧困自体の害を考える必要があります。
つまり、貧困がIQを下げるということです。これはある農家の金欠時と裕福な時期を比較した実験により裏付けをしている考察ですが、なんとなく考えてもしっくりきますね。
貧しいときはお金について考えたり、実際に働く時間が占める時間が増え、他のことを考える余裕がなくなります。これを精神的バインドウィズ(バインドウィズとはデータ処理能力のこと)と呼んでいます。
そしてこれこそが貧困者が奨学金などの支援に辿り着くのを妨げるのです。
支援の存在を知ることに始まり、煩雑な手続きと義務があるような状況では最も支援を必要としてる貧しい人たちには届きません。
代わりにそこそこの余裕はあるそれなりに貧しい人たちには行き渡り、格差を生む原因となってしまうのです。
では、例えば彼らの生産性を上げる農業設備を与えるなどはどうでしょうか。
これも維持や運転にかなりの費用がかかるわりに利益が少ないのです。
つまり、お金の正しい使い道を一番知っているのは本人ということです。外野がどれだけ想像を巡らせても生活という圧倒的な経験には及ばないのですね。
3.短時間労働
貧困における精神的バインドウィズは時間のないことが原因の一つでしたが、時間がないのは先進国の我々とて同じこと。
忙しいから余裕が無くてものを考えるのが下手になる。納得の行くストーリーです。
ただ、一気に詰め込む方が効率が良いということについては筆者は譲歩しています。ですが、それも短期間だけ労働時間を増やす場合に限定されます。
また、長時間労働は短期的なことには強くなりますが長期的視野は失われると言います。
例えば取引の話し合いなどを早めに終わらせられる工夫が冴えるようになります。切羽詰まっているといったところでしょうか。しかし、その取引自体の必要性を長期的に見る能力が低くなっているため、やはり余裕があった方が良いということになるでしょう。
過去にはフォードは週5日労働を導入して生産性を向上させた事実があります。労働時間の削減は生産性を上げるのみならず、余暇に乗り回すためにフォードの車を買う動機をも増やしたのです。
もともと、労働は社会のための行為でありさらには人がよりよく生活できるための行為のはず。人の生活を犠牲にして回っているのが元も子もないというもの。
なぜこうもとんちんかんなことになってるかと言うと、貧乏人が貧乏なのは自己責任という流説のせいです。
貧乏人は余暇を与えてもろくなことに使わないとか、ホームレスにお金を与えても酒と煙草に使うとか、根拠の無いままに貧乏人を見下す富裕層および知識人が原因となった事例です。
知識は視野を狭めるということの好例ですね。本当に勉強はしなければいけないけれど、同時に謙虚でなければならないと痛感させられます。
4.AIとの共存
短時間労働も極まると週十五時間労働になる、とはケインズの予測でした。
今は全くそんな風潮はありませんが、未来はどうかわかりません。
そしてこの流れでのAI登場です。
AIについてよく聞くのは仕事を奪われる懸念です。
この業種はAIに取って代わられやすいとか、これはAIに任せちゃいけないとか。
機械に仕事をとられる心配はありますし、実際に蒸気機関が多くの手仕事を奪った過去もあります。しかし、裏を返せば仕事をしなくてもよくなる生活に近づくということです。
まさしくケインズが予測したように。
仕事を失うのはある意味ではこたえるものではありますが、それは仕事にしか生きがいを見つけられていないからとも言えないでしょうか?
死ぬ前に後悔したことを調べると仕事ばかりしすぎてしまったというものもあるようです。スティーブジョブズくらいの偉業を成し遂げた人ならまだしも、してもしなくても良い仕事に人生の大部分を使うのはもったいない。それこそ機械に任せられるなら任せてもいいものでしょう。
我々はAIの侵略を恐れるのではなく、AIと共に生きることを目指さなくてはならないのです。
仕事が生きがいという時代は終わりつつあるのだろうと思います。